@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00000024, author = {西澤, 治彦 and ニシザワ, ハルヒコ and NISHIZAWA, Haruhiko}, month = {2016-02-17, 2016-02-17}, note = {食事文化研究においては、食物そのものや調理法が注目されがちで、その準備や、分配、食事の作法などといった、いわば広義の「食事方法」の部分は、必ずしも十分に研究されてこなかった。本論文は、こうした先行研究を踏まえた上で、中国社会(主に漢族を対象とし、台湾・香港も含む)における広義の食事方法を、歴史的、および教示的に記述・分析し、変化の過程を再構成すると同時に、食事方法の背後にある家族制度や人間関係などの分析を試みた。  序論においては、人類学一般と中国研究の双方における食事文化研究の歩みと、これまでの到達点や問題点を整理し、さらに本論文における方法論上の諸問題を論じた。  第二章は、中国における食事方法の歴史的な変遷を古代から再構成した。第六章で分析する食事方法が歴史を遡って適応できるのは、椅子坐と卓を日常的に使用するようになった、末代以降のことである。それ以前の中国人は席や筵に正坐し、案などの食台をつかって、銘々膳のかたちで食事をしていた。そこで記述に際しては、古代の時期と、牌晋南北朝以降の二つの時期に大別し、論じた。  中国古代における食事方法というのは、今も平坐の習慣を残している日本人にとっては、それほど違和感がない。古代における坐法や座具、食台と食器などを先行研究から整理し、あわせて画像石などの資料から当時の食事方法を探った。坐法や箸の使い方など、作法の原型は、周代にはすでに確立されていた。  その後、牌晋南北朝から末代にかけて、中国社会は長い時間をがけて、平坐がら椅子坐へ、そして卓の使用へと、大転換を遂げる。中国史では、「唐宋変革期」とも呼ばれ、この時期、社会のさまざまな面でパラダイム・シフトが起こるわけであるが、それは中国の料理(鉄鍋の普及と炒め物中心の料理へ転換)や食事方法(卓を囲んでの共食へ)をも含むものであった。この時期に、中国の食事方法コードは組み替えを余儀なくされ、今口我々が知る食事コードが誕生する。この過程はコードがなぜ、どのようにして組み替えられていくのかを知る上で非常に興味深いものであるが、残念ながらこの過程を詳細に記した資料はほとんどない。  それでも、移行期には併存現象が見られ、椅子の上に平坐する例など、未だに移行期の真っ直中にある日本人には理解できる現象が見られた。特筆すべきは、卓を使用するようになっても、フォーマルな場合には、一人で一卓を使用していたことである。これは第3章でも言及したが、これを行うには卓を運び入れる多くの使用人が必要であり、やがてこの形式はなくなっていった。  なお、日本における平坐がらダイニング・キッチンへの移行期では、こうした現象過程はみられなかった。これは平坐からダイニング・キッチンに移行する途中にちゃぶ台が存在したことと、移行に要した時間が100年と、中国に比べて短かったことによる。このほが、長卓と八仙卓の問題や、円卓の起源(清代の康煕・乾隆の頃)などを整理した。またターンテーブルは昭和に入って日本人が発明したものであった。  第3章では、研究対象の場をフォーマルな宴席の場に設定し、明清代から民国期にかけての、中国人が人を接待する際の詳細な手順を記述、分析した。異なる時代の資料を比較分析する過程で、より古い様式を伝えるタイプA(1799『清代紀聞』)・過渡期のタイプB(1905”Etiquette in Chinese Official Intercorse”)・簡略化された現代のタイプC(1964『増補中国料理の手引き』)とに分け、各手順の比較を行った。タイプAは、一人で一卓を使用するもので、客は動かず、使用人が卓を運び入れるものであった。なお、明代の南京において儀礼が精緻化されていく事例を紹介し、儀礼というものが時代と共に簡略化されるだけではないことを明らかにした。  宴席の儀礼は招待状の送付から始まっているが、重要なのは着席の際の儀礼的譲り合いである。これは椅子になったとはいえ、古代において席に坐る際の儀礼を思い起こさせる。中国における宴席で特徴的なことは、卓を多人数で取り囲むため、主人と主客のほかに、必ず陪客が存在し、この王者がそれぞれの役割をこなしていく。  ここで重要なことは、明清代から現代に至るまで、中国の宴席の手順は基本的にパターン化されていることである。これは葬儀や婚礼の儀礼が中国ではパターン化され、これに従うことが中国人たる証となっていたことを彷佛とさせる。言い換えれば、宴席の儀礼も、ある意味で中国社会を文化的に統合してきた一つのメカニズムであった。  第四章、第五章では、研究対象の場を家庭における日常の食事に設定し、中華民国期から現代までの同時代における食事方法を、民族誌を資料として、家族制度という文脈で分析したものである。誰が何を作るかを決めるか、誰が作るかをみていくと、核家族、直系家族、拡大家族によって、実にさまざまなバリエーションが存在する。男性が作ることも多かったし、都市部の労働者の間では、母と嫁との「戦略的な」分業体制がとられた。特に、拡大家族の場合、食事当番となる嫁には、厳格な規律でもって、数日間ごとのローテーションが決められていた。これは均分相続制度と密接に関係し、仕事の完全な均分分割の結果であった。  このことは分家後の父母の養育制度にも如実に反映され、分家前の各房の担当が、分家後は各核家族の分担に変わるだけで、構造的な変化は生じていない。分家前は父母の権力がものをいったように、分家後も父母の権力(それは自分の代で財産を築いたことにより増大する)が、さまざまな養育制度を子供らに選択させる要因となっていた。  第五章では、外で食事することを含め、食事の場所がとこでなされるか、誰と食事するか、どの席に坐るか、などについて分析した。中華民国まで、中国では男女が別々に食事をしていた。とりわけ会食の際には、男女の別のほか、世代や年齢によっても厳格に坐ることができる食卓が区別されていた。逆に、商家の場合、非親族である経理などを家族の卓に同席させることにより、家族の一員として扱っている証とした。  第六章は、対象を同時代の中国社会に限定し、家庭や外食における食事方法を共時的に分析した。その際、分配の道具としての食台と食器に注目したわけであるが、中国の食器の特徴としては、多数ある食器も、共同の食器と個人の食器という軸で分類すると、極めて単純な基本的組み合わせを持っていること、共同の食器と個人食器との大小のバランスが経済力に左右されること、角張った食器がないなど食器の形状が固定化されていること、子供用の食器がないこと、男女の区別もないこと、などが挙げられる。また中国では箸のほか匙も併用していること、箸の特徴としては、日本の箸より長く重たいこと、同じく子供用や男女の区別がないことが挙げられる。しかもこれらの食器類は、家庭内において、個人所有がない、こうした食器類やその使われ方にみられる諸特徴は、中国の取り分けという食べ方と密接な関係がある。  食卓の上に食べかすを置いても構わないというのも、この取り分けの食べ方から説明されうる。第六章では、この取り分けの食べ方におけるマナーを分析することにより、中国人の食事にみられる、構造的な特徴を分析した。即ち、1)平等性(同じ食べ物を分け合う)と共同性(一つの食卓を囲み、共同所有の食器で分け合う)、2)効率性(食器の数の少なさと配膳の便)と経済性(食べ残しが出ないこと)、そして最大の特徴ともいえる、3)緊張感(取り分けの際の緊張感)と社交性(その緊張感を覆い隠すものとしてのマナー)とを帰納的に導いた。  終章の第七章では、これまで論じてきたことを総括し、特に中国の食事コードという視点から、コードの幅と社会のヒエラルキーの問題、食事コードの組み替えの問題、具体的には、案と卓の相違点、案から卓への移行、およびそれに伴う個人分配から取り分けの方式への移行、それに関連するその他のコードの変化について考察した。そして最後に、取り分け方式の否定という中国における新しい動きを紹介した。  本論文では、歴史的研究と、共時的研究の二つのアプローチをとりながら、これまで十分に研究されることのなかった、中国の食事方法の構造とその変遷を明らかにしようと試みた。歴史的にみるならば、中国の食事方法の構造とその変遷を明らかにしようと試みた。歴史的にみるならば、中国の食事方法は唐末代に大きな転換がなされたが、本論文では、この時期の移行が単に坐法や食台のみならず、食具や取り分けの分配方式、それに付随するさまざまな作法の変化をも伴う、パラダイム・シフトの中で行われたことを明らかにした。共詩的にみるならば、同時代の中国の食事方法詳細な分析は、椅子坐と卓の使用が定着した末代以降の食事方法を、構造的に明らかにしようとしたものである。第六章で論じた内容がそれであるが、これを家族という文脈で分析したものが第四・五章にあたる。  このような二つのアプローチは、相互補完的なものである。即ち、歴史的な研究は民族学に対し同時代の食事方法の歴史地理的な位相を明らかにし、共時的な研究は変化の諸問題を考えるうえで、歴史学に対しより詳細な分析モデルを提示するものである。, application/pdf, 総研大乙第108号}, title = {「中国の食事方法 ‐歴史人類学的考察‐」}, year = {} }