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          <dc:title>インド農村社会における不妊経験の人類学的研究</dc:title>
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            <jpcoar:creatorName>松尾, 瑞穂</jpcoar:creatorName>
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            <jpcoar:creatorName>マツオ, ミズホ</jpcoar:creatorName>
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          <datacite:description descriptionType="Other">本論文は、インド西部、マハーラーシュトラ州農村社会における不妊を事例として、〈逸&#13;
脱＝苦しみ〉を生きる人びとによる世界への参与方法としての実践的対処法と、それを支&#13;
える社会的要因を明らかにすることを目的とする。また、具体的な記述、分析においては、&#13;
不妊経験を日常嶺域、宗教額域、医療領域に分けることによって、近代と伝統という二元&#13;
論的視点を回避し、人びとの生きられる経験の多元性を描出することを目指すものである。&#13;
子どもを産み育てることは、女性が担う社会的・宗教的責任であり、そこからの「逸脱」&#13;
である不妊は、女性に起因すると見なされるマハーラーシュトラ州村落のジェンダー規範&#13;
は、人びとの不妊経験の構築にも重要な役割を果たしている。婚姻と強固に結びつけられ&#13;
た妊娠・出産という一連の生殖サイクルは、自明のものとして女性の生に埋め込まれてい&#13;
るが、不妊であるということは、その自明性を揺さぶる偶有的な出来事となる。&#13;
　このような偶有性に対処し、浮き上がった個を再び全体（社会）へと埋め込もうとする&#13;
試みが、不妊への多様な実践的対処法である。不妊への実践的対処とは、「何を当てにでき&#13;
るか」という判断や信頼を支える選択行為であり、それを本論文では「信じる（&lt;i&gt;bisvas&lt;/i&gt;）」&#13;
と「効果がある（&lt;i&gt;upayog&lt;/i&gt;）」という民俗語彙に注目して分析をする。だが、この実践的対&#13;
処とは、個人の自由でランダムな選択に全面的に委ねられているわけでも、完全に社会に&#13;
よって規定され構造化されているわけでもない。それはカーストやジェンダー、宗教、世&#13;
代といった個々人の属性によって異なる心的傾向に導かれた、「予めの適用」や「予めの排&#13;
除」のなかで、人びとによって選択される行為だと捉えられる。&#13;
　本論文では、日常世界で見いだされる多様で個別的な行為を、宗教や医療と同様に、不&#13;
妊を克服するための試みであるとする。そのように見ると、家族や親族、近隣コミュニテ&#13;
ィという顔の見える真正な社会は、不妊をめぐる排除や差異化による「逸脱」の顕在化が、&#13;
最も明示的になる場であった。この「日常領域」が、〈逸脱＝苦しみ〉 としての不妊経験の&#13;
根幹を形成しているということは、不妊を原因とする別居や離婚、複婚をはじめとする婚&#13;
姻の再構築の例からも明らかである。&#13;
　同時に、不妊女性による夫の複婚相手選びへの積極的な関与や、そこで選ばれる女性、&#13;
また、不妊夫婦の間でしばしば強調される「愛情」、自らの生殖能力の主張である流産の経&#13;
験や妊娠の模倣といったものは全て、こうした〈逸脱＝苦しみ〉への実践的な対処である。&#13;
このことは、不妊女性たちが、日常的で個人的な関係における具体的な交渉を必ずしも放&#13;
棄しているわけではないということを示している。不妊という「逸脱」は、日常領域にお&#13;
いて最もリアルな、痛みを伴った苦しみとして経験されるがゆえに、それを克服するため&#13;
の多様な対処法を同時に要請するのである。&#13;
　しかし、こうした日常的な領域と重なりつつもそれを超えるような、より広い共同体的&#13;
な社会関係へと目を向けると、そこで見いだされる不妊経験は異なる様相を示している。&#13;
そうした嶺域の1つである宗教領域は、不妊の病因論である女神や祖霊という宗教実践に&#13;
よって大きくかたち作られている。不妊の民俗的病因論としての女神サッテイ・アスラの&#13;
特徴とは、不妊は月経の禁忌の侵犯によって引き起こされるとされ、原因は不妊女性個人&#13;
に帰されているということである。この点において、ローカルな社会の病因論は、当該社&#13;
会のジェンダー規範との矛盾は一切見られない。また、この女神信仰は、農耕カーストで&#13;
あるマラータ・クンピを始めとした中・下位カーストの女性の間で最も広まっており、男&#13;
性と、女性であってもブラーミンのような上位カーストや新仏教徒の間では、女神サッテ&#13;
ィ・アスラ信仰に関する知識と情報の共有は見いだされない。&#13;
　一方で、トランパケーシュワルという巡礼地において、ブラーミン司祭によって執行さ&#13;
れるナラヤン・ナーグバリ儀礼という祖先祭祀は、サンスクリット文献に基づく大伝統的&#13;
な実践であり、ブラーミンを中心に広まっている。祖霊の怒りや不十分な葬送儀礼による&#13;
不妊というこの病因論においては、女神サッテイ・アスラで見られたような、原因の個人&#13;
化は見られない。男性は「イエ（&lt;i&gt;ghar&lt;/i&gt;）」の当主として、不妊がもたらす世代の不継承に&#13;
ついては責任を持つが、常にイエという集団のなかに回収され、だれか特定の個人に原因&#13;
が帰されるわけではないからである。こうした女神や祖霊のような病因論の検討から明ら&#13;
かとなることは、ジェンダーやカースト、ローカリテイ（都市か農村か）、社会階層、宗教&#13;
のといった、人びとが有する属性に応じた選択的な実践が行なわれており、たとえ同じ「パ&#13;
ウド村」という居住空間を共有していたとしても、必ずしもその知識と技術が一律に共有&#13;
されているわけではない、ということである。&#13;
　そのようななか、特に若い世代を中心に10年くらいの間に急速に広まっているのが、&#13;
不妊を医療のイディオムによって理解しようとする動きである。このような医療との関わ&#13;
りにおいて経験される不妊の医療領域には、パウド村のRHや、民間病院に通うという治&#13;
療の第1段階と、そこからさらにプネーやムンバイのより大きな専門化された病院へ通う&#13;
という第2段階とがある。しかし、実際には両者の間には経済的・地理的・時間的・行動&#13;
様式的な乖離があり、村びとにとっては特に第2段階の継続が困難となっている。また、&#13;
都市の中産階級以上には開かれている、生殖医療技術を利用したさらなる不妊治療という、&#13;
治療の第3段階は、村の女性たちにとっては選択肢としては事実上、「存在していない」&#13;
に等しいものである。そのため、長期化する不妊治療に対しては、日常領域での対処法に&#13;
あたる、離婚や複婚のような婚姻関係の再構築のほうが、より「合理的」かつ「現実的」&#13;
選択肢として見なされている。&#13;
　また、この医療領域で人びとが経験する、「キュレーティング」（子宮内膜組織検査）や&#13;
人工授精、精液検査という不妊検査・治療は、ローカルな社会の文化的意味やジェンダー&#13;
構造を反映して、意味の読み替えや再想像、さらには解釈枠組みへの再配置が行われてい&#13;
る。例えば、キュレーティングは単なる検査を超えて、「妊娠しやすくなる」と信じられて&#13;
おり、人びとの間でその効果が期待されているものである。医師は、このような患者の認&#13;
識を「誤解」や「無知」によるものだとするが、こうした技術の再配置は、村びとだけで&#13;
はなく、その社会関係に深く取り込まれた医師たちによっても同様に担われていることも、&#13;
見逃せない。特に、不妊にまつわるジェンダー規範に対処することが医師にとっては大き&#13;
な関心事となっており、意識的にせよ、無意識的にせよ、医療技術のローカルな意味世界&#13;
への再配置が行なわれているのである。&#13;
　ここまで総括してきたように、インド農村社会における 〈逸脱＝苦しみ〉 としての不妊&#13;
経験は、複数の嶺域にまたがる多元的な経験であり、人が生きる社会のなかで複合的に形&#13;
成されるものである。そして、それぞれの額域で見いだされた多岐にわたる対処法（知識&#13;
と技術）は、各領域における「信じる」と「効果がある」の組み合わせによって規定され&#13;
ている。それは、個人が行なう実践的対処であると同時に、それ自体が不妊という「逸脱」&#13;
を説明付け、また、「逸脱」した個を再び全体（社会）へと埋め込もうとする、社会が用意&#13;
する回路でもある。&#13;
　このように見ると、本論文で示した、不妊女性による多様な対処法とは、「人々のまさ&#13;
に目先の問題（病気やさまざまな不幸、特定の隣人から行使されていると判明した攻撃に&#13;
対する防御、反撃など）に対処する実践以外のなにものでもない」［浜本2007：123］と&#13;
いえるだろう。浜本は、人びとのオカルト的実践が、グローバル資本主義への抵抗として&#13;
横滑り的に解釈されている妖術や呪術のモダニティ論を批判し、そうした陥穿を「意図性&#13;
のショートサーキット」として指摘する［浜本2007］。このような浜本の批判は、まさに&#13;
近代医療とジェンダーとの関わりをアイデンティティ形成と抵抗という点から論じてきた、&#13;
これまでのジェンダー医療人類学にも当てはまるものである。&#13;
人びとの実践的対処とは、子どもがいないという「目先の問題」を何とか解決するため&#13;
のものであり、ひいては、個を浮き上がらせる「逸脱」を元に戻そうとするためのもので&#13;
ある。顔の見える真正な社会における、夫や義母、隣人、あるいは医師といった個別の他&#13;
者への抵抗や反発（例えば、義母に反論する、夫に嫌みを言う、複婚を思いとどまらせる&#13;
など）と、「命令」（母になるという社会的要請）そのものを反故にするような抵抗との間&#13;
には大きな跳躍がある。確かに、生殖可能年齢を過ぎた人びとにとっては、不妊であると&#13;
いうことはもはや緊急の 〈逸脱＝苦しみ〉であるとはいえないかもしれない。しかし、そ&#13;
れはリースマン［Riessman2000、2002］がいうように「母性に限定されないアイデンテ&#13;
ィティ」を構築したからではなく、慢性の病いと同様に、不妊であるところの生を受け入&#13;
れる（acceptance）［クラインマン2007］ことによって可能となる。&#13;
　以上の点から、本論文では、〈逸脱＝苦しみ〉 という視座を採用することによって、ジ&#13;
ェンダー医療人類学の領域に、抵抗論には還元されえない新たな視座を提示し、現象のよ&#13;
り適切な理解に寄与したと結論付けることが出来る。</datacite:description>
          <datacite:description descriptionType="Other">総研大甲第1182号</datacite:description>
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