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          <dc:title>高麗後期青瓷の研究</dc:title>
          <dc:creator>韓, 盛旭</dc:creator>
          <dc:creator>ハン, ソンウク</dc:creator>
          <dc:creator>HAN, Sung Uk</dc:creator>
          <dc:description>総合研究大学院大学</dc:description>
          <dc:description>博士（文学）</dc:description>
          <dc:description>本論文は、朝鮮半島の代表的な陶磁器のひとつである高麗青瓷について、高麗後期を経る&lt;br /&gt;中で次第に朝鮮時代の粉青瓷に変質していく実態を、歴史的な背景とともに検証し、これま&lt;br /&gt;での研究史のなかでは明確にされていなかった生産技術の変化と各種紀年銘資料の分析によ&lt;br /&gt;り精微な編年を構築し、それに基づきこの時期の高麗青資の様相を解明したものである。&lt;br /&gt;　序章にのべられた視点・分析方法の特徴は、&amp;#9312;紀年銘資料を共通項にして、年代の判明す&lt;br /&gt;る陵墓や寺院、生産地である窯、その流通過程である沈没船一括資料、使用の実態を示す消&lt;br /&gt;費地遺跡資料群を関係づけることにより、各期の様相を総合的にとらえること、&amp;#9313;朝鮮半島&lt;br /&gt;はもとより、日本、中国など東アジア各地での高麗青瓷のあり方を検証したことである。&lt;br /&gt;　Ⅱ章では、対蒙抗争と元の干渉期、倭冠の頻繁な侵入等の対外的要因と、内的には武人執&lt;br /&gt;権層と権門勢族による経済的収奪によって社会・経済的矛盾が深化したとされる高麗後期の&lt;br /&gt;青瓷生産の特質を明らかにした。特に、専門的分業下で製作された陶蛮生産組織「所」の解&lt;br /&gt;体が加速し、中央統制によっていた青蛮生産は、統制の緩みと官需から民需へと需要廟の変&lt;br /&gt;化と増加による生産と供給の拡大もあいまって、その質が低下し粉青瓷へと移行した過程が&lt;br /&gt;明瞭となる。一方、武臣政権の経済的基盤であった全羅道地域は対蒙抗争中も比較的被害が&lt;br /&gt;少なく、青瓷生産の中心である康津の陶瓷製作は緩やかに衰退したことが分かる。つまり、&lt;br /&gt;対蒙抗争は青瓷衰退の原因となったが、青瓷の質的下落に決定づけるものではなく、それ以&lt;br /&gt;後、元の干渉期と倭冠の頻繁な侵入等、高麗社会の停滞とともに漸進的に衰退したと考える。&lt;br /&gt;特に南海岸への倭冠の頻繁な侵入は、康津地域の陶瓷生産の質を下落させる決定的な契機と&lt;br /&gt;なった。また、この時期は長い戦乱による身分制度の弛緩と「所」の解体、収取体制の混乱&lt;br /&gt;等で、民需が拡大しながらもエ人たちの離散による陶瓷生産地の拡散をより増加させた。こ&lt;br /&gt;のような複合的要因は先の時代的背景とともに実用性が強調される日常器種の大量生産を促&lt;br /&gt;進させ、青瓷の質的衰退を一層加速化させたのである。&lt;br /&gt;　Ⅲ章では、年代が明瞭となる寺院、城、陵墓、沈没船遺跡などの出土品を悉皆調査し、そ&lt;br /&gt;の年代の根拠と性格を考察した。高麗後期には干支銘、宮司銘、記号などの銘文をもつ青瓷&lt;br /&gt;資料が増加する。その増加の時期や、あり方から銘文を青瓷の質の保持と流出を防くためと&lt;br /&gt;結論づけた。またそれら銘文資料によりその年代観を再検討した結果、干支などを従来の陶&lt;br /&gt;磁史の一般的な理解である年代よりも60年遅らすことが妥当と判断した。&lt;br /&gt;　Ⅳ章では、海外における高麗青瓷の出土状況を検討し、その年代と性格を明らかにし、高&lt;br /&gt;麗青瓷の流通や機能を考察した。日展交易は、博多を通じた制限的な公的貿易が中心とされ、&lt;br /&gt;高麗青瓷の流通も限定的である。中でも、博多、京都、鎌倉に出土が集中し、各都市の機能&lt;br /&gt;を反映した特徴が明確となる。博多は対外交流の窓口として、高麗青瓷も最も大量にまた初&lt;br /&gt;期からの出土が認められ、器種は日常品の椀皿を主に出土する。京都は、日本の首都だが、&lt;br /&gt;博多、鎌倉に比べその量は少ない。京都の貴族層の朝鮮半島に対する意識と高麗青瓷そのも&lt;br /&gt;のへの関心のなさ低さによると推定される。注目されるのは鎌倉であり、新興の武家政権の&lt;br /&gt;所在地として、積極的に受容したと考えられる。これは、鎌倉出土品は、最良質で壷や瓶、&lt;br /&gt;枕など荘厳と権威を象徴する特殊で高級な器種ばかりが流入したことでわかる。博多との比&lt;br /&gt;較などからも、この時期、鎌倉幕府が積極的に九州、特に博多の貿易管理を進め、その利益&lt;br /&gt;とまた鎌倉の独創的な文化の構築を欲求していたことがいえる。中国とは海路、陸路による&lt;br /&gt;持続的な交易があり、広く各地へ流入したことが確認された。遺跡には貴族層をはじめ一般&lt;br /&gt;の都市遺跡、小型墓など多様な階層が認められる。頁納品としては壷や瓶などや画金磁器な&lt;br /&gt;どの高級象蔵書変が重要な品目であったと記録される。これらの高麗青瓷が中国陶磁に与え&lt;br /&gt;た影響も予測されるが、資料公開が限定的なため未解決な問題が残された。&lt;br /&gt;　Ⅴ章は、高麗後期青瓷の様相と変遷を考察したまとめである。13世紀代の青蛮は、明宗智&lt;br /&gt;陵と雀抗墓、熙宗碩陵、披州恵陰院、珍鳥竜蔵城、莞島法華寺、済州法華寺出土品等年代の&lt;br /&gt;明確な遺跡出土資料の制作技術的な分析により、12世紀代に絶頂をなした全盛期の翡色青瓷&lt;br /&gt;の余韻を維持しながら対蒙抗争等の社会的条件によって漸次衰退したと結論した。14世紀に&lt;br /&gt;なると、外反鉢、突帯楳匙、高足杯、扁瓶、内底曲面式楳匙等の中国元の影響を受けた新た&lt;br /&gt;な様式のモデルの受容が特徴である。また技術的には、実用性と機能性が強調されつつ、器&lt;br /&gt;形の大形鈍重化、文様の簡略・集団文様の反復等、図式化・様式化の進行が顕著となり、ま&lt;br /&gt;た、化学分析からも明らかになるように釉色の退化、胎土粗悪化がすすむことが指摘される。&lt;br /&gt;『干支』銘や「公須」、「徳泉」、「至正」、「正陵」等の銘文青瓷は、この時期の質の衰&lt;br /&gt;退を抑制するためと結論する。また、従来論議が多かった干支銘青瓷の製作時期については、&lt;br /&gt;窯場の康津地域の情勢と13世紀出土品との器形比較・胎土と釉薬分析等によって14世紀に&lt;br /&gt;製作されたと結論した。干支銘釉色は「己巳」（1329年）から「甲戌」（1334年）の群と「辛&lt;br /&gt;巳」（1341年）から「乙未」（1355年）の群に分けられ、焼成技法や施釉、器形など大きく技術&lt;br /&gt;変化している。この変化は務安道里涌海底遺物に代表される末期青瓷へと続くが、この段階&lt;br /&gt;を過ぎると、王朝の交替とともに朝鮮前期を代表する新たな陶瓷の伝統である粉青瓷へと移&lt;br /&gt;行・発展し、高麗青瓷は消滅を迎えるのである。</dc:description>
          <dc:description>総研大乙第164号</dc:description>
          <dc:description>thesis</dc:description>
          <dc:date>2006-09-29</dc:date>
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