@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00000115, author = {松浦, 利隆 and マツウラ, トシタカ and MATSUURA, Toshitaka}, month = {2016-02-17}, note = {従来、わが国の産業近代化、西欧輸入技術の速やかな消化と、それによる国内生産機構の速やかな近代化であると一般的に信じられてきた。そして、その中では江戸時代以来の在来産業・在来技術はこの近代化により駆逐される存在か、あるいはせいぜい近代産業の有益な土台と考えられてきた。 しかし近年、主に数量経済学などの分野からの研究では、明治から昭和初期に至る時期の産業生産における在来産業の占める割合の大きさが注目されている。そして、明治以後の産業近代化が単に移入技術や工場制度に代表されるような[近代]産業のみによって支えられ、成し遂げられたものではないことが次第にはっきりしてきた。 実はこのような思いは、地方で近代の産業関係史料を扱い、実際に個々の産業の事例を追うような作業をしている中で、たとえば在来産業に関する資料の量的膨大さ、あるいはその内容的豊富さなどといった点から個人的にも常々実感してきたものであった。 そこで本論では、この近代化の中における在来産業と在来技術がどのような位置にあり、どのような発展を遂げたかについて、主に在来技術改良の視点から見直すこととした。この際その事例として、近代産業特に輸出の中心であった製糸業とその周辺産業である養蚕、織物業を、さらにまた、この産業が明治期に特に発達した地域である群馬県を中心として取り扱った。 具体的には、最初に養蚕業の基本である桑樹生産について、明治三老農として有名な船津伝次平の「簾伏法」の発明とその実態について明らかにした。次に、明治初期の養蚕方法の近代化に大きな役割を果たした「清涼育」と「清温育」について取り上げ、まず清涼育の中心概念である湿度管理のための養蚕農家形式がどのように発明されたかを明らかにし、現在でも北関東の農村によく見られる越屋根付きの養蚕農家の発生時期とその状況を同定した。そしてさらに、明治の養蚕法を統一したといわれる清温育自体について、その創生過程がどのようなものであったかを明らかにした。 この三例からそのいずれもが、明治以後になって西欧の移入技術とはまったく無縁のところで行われた改良であり、製糸を支えるよう産業の近代化には近世以来の材料技術改良の伝統が資する点が大きかったことをこの部分の結論とした。 次に製糸業においては、国内初の西欧式器械製糸工場である富岡製糸場が設置されながら、明治期を通じて、在来的な座繰製糸が中心に全国有数な生糸生産を揚げた群馬県の座繰製糸改良の歴史を中心に取り扱った。その中で特に注目したのは、座繰製糸が近代的な器械製糸に対抗できたのは明治以後も続く不断の「改良」の結果であった点である。またこの「改良」は器械そのものにとどまらない、生産工程、商品化さらには「組合製糸」といった組織の発明をも含む社会的なものであり、単にハードウェアーの改良にとどまらないものであった点にも注目した。 最後に織物業については、先染後織の高級織物産地である桐生新町を中心に、幕末の開国と生糸不足により織物産業がどのように打撃を受けたか、そして不況による社会不安への町役人の対応を通じて、それまでの支配機構による保護と統制に頼らない在郷町桐生の運営が行われた面を明らかにした。そしてこういった封建的保護からの早い時期の自立経験が、明治以後の自由競争時代の民業の活性化による織物産業復活のきっかけとなった。この状況を、在来的な技術に輸入材料や輸入技術を取り入れる方法による明治初期の新製品の開発ラッシュの様子から明らかにした。 以上のような、具体例を通じ、以下に幕末から明治期の在来産業と在来技術の質と量が想像以上に豊かなものであり、しかもこの時期の実際の生産を支えた原動力の一つであったことの一端を示した。そしてこの在来産業の質と量をもたらしたひとつの要因は、明治以後も面々と継続された、在来技術の改良にあり、しかもそれは在来的な改良方法を主にしながら、明治以後の輸入技術革新の成果をも十分に利用したものであることを結論とした。, 総研大甲第737号}, title = {近代における在来技術改良の研究 -群馬県の養蚕・製糸・織物業を例にして-}, year = {} }