@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00000116, author = {平野, 恵 and ヒラノ, ケイ and HIRANO, Kei}, month = {2016-02-17}, note = {本研究の課題は、十九世紀の江戸・東京地域における園芸文化を明らかにすることである。特に、園芸文化を具現した人物として、植木屋を筆頭に、本草学者や文人など、立場は様々であるが、園芸に携わる担い手側から考えていくものである。

 第一部では、十九世紀に流行した園芸植物を事例に、この流行を担った層が「連」から植木屋に移行した点を検討した。
 第一章では、変化朝顔と小万年青の図譜・番付により、出品者の地域の検討を行った。その結果、変化朝顔の栽培地域には、植木や集住地帯として知られる地域ではなく、下谷・本所・浅草など、品評会の場所として供される地域が多かった点を明らかにした。江戸で初めて変化朝顔の品評会が行われたことなどから、繁華街に隣接する寺院を様子地域の特徴が、園芸文化を具現する場となっていった。
 第二章では、江戸で朝顔ブームが開始する直前、文化7~9年に成立した寄合書を検討し、後の朝顔流行の形式に少なからず影響を与えた狂歌グループの活動について述べた。文化・文政期における、朝顔流行のきっかけは、文人の手で作り上げられた点を、大田南畝を例に挙げて述べた。園芸文化を支えた層「連」と言う愛好グループは、品評会を催し、番付を発行した。ここには狂歌によって宣伝効果が付加され、次第に「植木は儲かる」という認識のもと、植木屋が宣伝を始めるが、一方で「連」は減少する。アマチュア集団「連」によって、栽培法の秘伝の公開等技術は発展したが、結果的に植木屋にその主役を譲った経緯を示した。また、植木屋と文人が出会う場として、身分を問わない、寺院の境内で行われた朝顔品評会の重要性について触れた。
 第三章では、変化朝顔の流行を、江戸と大坂、名古屋における地域別における担い手の比較という観点から論じた。流行の時期は共通していたが、担い手は、図譜・番付の分析により大坂の植木屋の存在が希薄という結果を得た。しかし、尾張の本草学者の資料により、大坂の植木屋の重要性が知られ、また、本草学者が自ら変化朝顔を培養し、種の交換を行い、大坂と江戸にネットワークを持っていた点を明らかにした。

 第二部では、園芸と本草学という視点から、植木屋における本草学、本草学者における園芸の重要性について、双方から考察し、園芸が広い意味で本草学に含まれることを実証した。
 第一章では、幕末から明治期に活躍した植木屋・柏木吉三郎について、著作・画稿・写本の分析により、その本草学上の業績を初めて紹介した。柏木家は、兄・父との共著『草木名鑑』から知られるように、伝統的に本草を学ぶ家系であった。吉三郎は、江戸の本草学者と親交があり、尾張藩医・伊藤圭介に才を買われ、幕府薬園や蕃書調所に勤務、明治期の博物研究会「温知会」への参加など、学究肌の植木屋であったことを明らかにした。
 第二章では、江戸地域を中心に活動した代表的本草学者としての岩崎灌園が、その著作『武江産物志』や『草木育種』『採薬時記』に、江戸の植木屋からの情報を採り入れていることを明らかにした。また、灌園の著作『草木育種』が、園芸書の中で画期的な書物である点、『本草図譜』が、後の植物学者に多大な影響を与えたことを明らかにして、十九世紀の本草学の方向性を指し示した人物として評価した。

 第三部では、十九世紀の江戸・東京の植木屋が、隆盛を極めた事実を明らかにし、植木屋の庭が名所となるためにどのような手段を講じたかを検証し、これら有名植木屋を都市植木屋として農村型植木屋と区別することを提唱した。
 第一章では、文政10年『江戸名所花暦』以降、幕末期に花暦が複数出版されていたことに着眼し、江戸園芸に貢献した植木屋増加の現象について検討した。幕末期の花暦は、毎年出版されるだけの需要があり、名所数を増やしていったが、新名所として追加されたのは個人の庭(特に植木屋)であった。さらに個人名を載せずに地名だけを載せる地域が、植木屋集住地帯であったため、その実数異常に、植木や数が増加したと結論付けた。
 第二章では、幕末から明治前期に賑わった、江戸・東京における植木屋の庭を代表して梅屋敷を取り上げ、観光地として生き残るために、種々の草花を植える『花屋敷』へと志向し、茶店や風呂を設け、鶯の啼合会を催して詩歌会を開くなど、集客のために講じた手段の具体例を挙げて検討した。これらの手段は、梅屋敷以外でも植木屋の庭の名所化にも援用され、文人・学者との相互作用において初めて可能になった現象であるとした。
 補論として、幕末に流行した鶯の啼合会の実態及び「飼鳥文化」について論じた。「初音里鶯之記」碑より、初音里(台東区根岸)の啼合会の成立を明らかにし、裏面「鶯之名寄」の検討や『春鳥談』等の記事により、会の担い手が武士から富裕な町人に移ったとした。また、飼鳥書の調査により、「飼鳥文化」は、はじめ武士の趣味であったが、次第に大衆の娯楽と化していく、幕末~明治期の趣味文化の典型的な例であるとした。
 第三章では、化政期以降に菊細工に従事した植木屋の質的な差異に注目し、農村型と都市型に区分した。農間余業として植木業を営み、「花屋」と称した染井の植木屋を近郊農村型とし、幕末から明治にかけて急成長した植木や、巣鴨の内山長太郎・斎田弥三郎、団子坂の森田六三郎・楠田右平次を都市型として位置付けた。都市型の特徴は、本草学に貢献する有識者であり、職人から商人へ転身した姿でもあり、新しい職業形態として評価した。
 補論では、現時点で判明している菊細工番付を提示し、その年代決定を試みた。この上で菊細工番付そのものが内包する情報の検討を行い、植木屋を筆頭に飲食店、寺院など、地域における住民が、菊細工による経済効果を期待した事実を明らかにした。菊細工を支えた原動力について、植木屋以外の要素について、番付の板元、開帳や檀那寺の関係、臨時飲食店など今まで検討されていなかった、地域への還元という視点から考察した。

 本研究は、地域性の高い地場産業としての園芸文化を評価することを目的としたものである。とりわけ、実務に携わる人物、植木屋を中心に、正史に登場しなかった人物の事蹟に注目した。本研究の結論は都市型植木屋の誕生に影響を与えたのは、十九世紀の異分野交流を特徴とする文化・思想であったということである。文化とは、印刷物出版であり、「会」開催であり、これが植木屋の庭の名所化の手段に適応し、思想とは、「会」することで歌を読み、園芸植物を考究し、新奇なものを会することによって、学芸活動を進歩させるとの考えであった。この事実によって、園芸という技術だけではない広がりを持つ「園芸文化」が、補論で紹介した飼鳥文化と同様、十九世紀特有の文化活動であることを明らかに出来たと考える。, 総研大甲第828号}, title = {近世日本の園芸文化-植木屋とその周辺-}, year = {} }