@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00000118, author = {今井, 昭彦 and イマイ, アキヒコ and IMAI, Akihiko}, month = {2016-02-17}, note = {近代日本における戦死者祭祀(慰霊)の問題は、いわゆる「靖国問題」に象徴され、この問題は今や国際問題にまで発展した。そしてこの問題をめぐる議論は、一般に憲法上の、政教分離をめぐる問題として議論されてきた。しかしながら、靖国神社そのものの本質に関わる問題、つまりその起源や歴史的機能・役割については、殆ど議論の対象外にされているように思われる。本論文はこうした状況の中で一体、靖国神社とは何であるのか、あるいは近代日本における戦死者はどのように祀られたのかを、とくに宗教社会学・民俗学的視点に立脚し、広義の社会調査(フィールドワーク)を重視して、歴史的に解明しようとするものである。
 とくに実地調査にあたっては、文献資料のみではなく、それまで研究資料として顧みられなかった、慰霊碑などの金石文の収集に努め、これを第一次資料として活用している。また、近代日本における戦死者といえば、日清・日露戦役以来の、対外戦争における戦死者を指す場合が一般的であるが、近代日本はいわゆる戊辰の内戦で幕を開けたのであるから、明治初期の内戦における戦死者をも重視し、それ以後の対外戦争における戦死者と区別した上で、両者を検討の対象として設定する。
 近代日本における戦死者祭祀の方向づけを決定したのは、まず日本人同士が戦った内戦においてであった。そもそも靖国神社の起源は、明治2年6月創建の東京招魂社であり、ここには戊辰戦役以来の政府軍戦死者(西軍)のみが祀られた。したがって、反政府軍戦死者(東軍)は「朝敵・賊軍」として、一般に国家による祭祀るの対象とはならなかった。本論文の第一部は、「内戦における反政府軍戦死者の祭祀」についての検討であり、この「朝敵・賊軍」といわれた戦死者がどのように扱われたのかを、事例研究をもとに分析したものである。とくに内戦における戦死者祭記については、現在、研究者の関心が殆ど及んでいない、未開拓の領域といえるのである。
 第一部での具体的な事例研究としては、越後小出戊辰戦役(慶応4年閏4月)、会津戊辰戦役(慶応4年8月~明治元年9月)、己巳戦役(箱館戦争、明治元年10月~明治2 年5月)、佐賀の乱(明治7年2~3月)、神風連の乱(明治9年10月)の、5例についての検証である。
 たとえば成辰戦役の天王山といえる会津戊辰戦役において、会津藩氏ら東軍戦死者3000名の遺体は、「朝敵・賊軍」の汚名の下に、半年近くもその埋葬が許可されず、路傍に打ち捨てられる結果となった。漸く埋葬が許可されても、その埋葬や慰霊活動には多くの制約が加えられ、また会津の地および会津人(「会賊」と呼ばれた)は、明治以降、政府から冷遇の対象とされる。東北地方が貧しいという負のイメージは、これ以来つきまとうものであり、また己巳戦役のおける戦死者800名においても、会津戊辰戦役の場合ほどではないにしても、政府の冷遇の姿勢は一貫していた。
 他方、靖国神社に祀られるかどうかということは、極めて政治的な力関係によって決定される実証されている。佐賀の乱の場合、佐賀軍(反乱軍)戦死者216名は、地元の佐賀県護国神社(地方の護国神社は靖国神社の末社であった)に祀られるものの、靖国神社の祭神にはなっておらず、護国神社との祭祀とは別に、招魂碑が建立され、佐賀軍関係者によって、独自の慰霊活動が展開されている。一方、熊本での神風連の乱の場合、神風連(反乱軍)戦死者123名は、地元の熊本県護国神社および靖国神社の祭神となって、国家祭祀の枠内に組み込められている。これは特異な例であるが、神風連には首領の太田黒伴雄を初めとして神官関係者が多く、このことが明治百年を期してとはいえ、靖国神社への合祀にまで至ったと考えられる。
 次に第二部は、「対外戦争における戦死者の祭祀」に関する検討であり、主として群馬県下および北海道での事例をもとに、考察している。キーワードとしては招魂碑・忠魂碑・忠霊碑、あるいは「地方の靖国」たる護国神社等が挙げられるが、戦争が社会に与えた影響力からしても、また戦死者の数からしても、事例研究は内戦における場合よりも、当然広がりをもつことになる。
 たとえば札幌では、西南戦役(明治10年)で戦死した屯田兵(政府軍)戦死者36名を祀る、「屯田兵招魂之碑」が明治12年5月に建立され、これが起源となって札幌招魂社となり、さらに現在の札幌護国神社へと発展する。つまり招魂社を媒介に護国神社ヘという発展過程が確認できる。この屯由兵戦死者は靖国神社にも合祀されるが、この招魂碑の発展過程は、内戦から対外戦における地域社会の戦死者を取り込んでいく過程でもあり、「地方の靖国」が形成されていく一つの典型であった。また戊辰戦役において出兵した上州館林藩(政府軍)は、39名の戦死者を出し、この戦死者が明治2年9月建立の招魂祠に祀られて(やがて靖国神在の祭神ともなる)、この招魂祠に、対外戦争における戦死者が徐々に合祀されていき、「地方の靖国」が誕生していくのである。
 他方で慰霊施設は、護国神社以外にも多様な形態が存在した。代表的なものは、「ムラやマチの靖国」といわれる忠魂碑・忠霊碑であるが、忠魂碑の出現は一般に日露戦役であり、それまでは戦死者個人碑という形をとる。つまり日本の命運を賭けた日露戦役は、ムラやマチにおいても戦死者の共同祭祀という形態を生み出し、招魂社制度も整備されていく。そして昭和期に入ると、国内において忠霊塔の建設が一般化する(ただし外地においては、忠霊塔は日露戦役後に中国大陸に建設されている)。忠魂碑には戦死者の遺骨は納められず、魂のみが祀られたが(靖国神社も魂のみを祀った)、忠霊塔は「遺骨を納める墓」であるとされ、とくに陸軍主導によって、その建設が推進された。ここに戦死者をカミとして祀るのか、それとホトケとして祀るのかという、祭祀上の大きな問題が発生していくことになる。
 内戦における反政府軍戦死者は、基本的には国家レベルとは別の次元で、あるいは別の祭祀形態で、地域社会で祀られた。一方、対外戦争における戦死者は、国家レベルで祀られるとともに、地域社会でも祀られ、重層的な祭祀の対象となった。ただし重層的な祭祀上の対象になったとしても、「国の論理」と「地域の論理」というべきものの間で、祭祀上の齟齬がしばしば生じる結果ともなった。いずれにしても、どのような戦死者を、どのように祀るのかという問題は、近代日本の社会を考察する上で、極めて重要な問題であると考えられる。
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