@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00000123, author = {宇野, 功一 and ウノ, コウイチ and UNO, Koichi}, month = {2016-02-17}, note = {都市祭礼とは京都の祇園祭に典型的にみられるように、もともとは都市に住む民衆が都市を繁栄させるために自ら創り出し洗練させていった装置である。この前提を切り口とすれば祭礼の社会的・経済的・宗教的な機能をそれぞれ精確に描くことができ、さらにそれらを有機的に関連づけて祭礼の全体像を描くことができるはずである。本論文においては博多の二大祭礼である祇園山笠(伝播元は京都の祇園祭)と松離子(伝播元は京都の松唾子)を例に、上の見解を実証した。祇園山笠については近世と近代を中心に、松嘩子については近世を中心に分析した。
まず、室町・戦国時代の博多と両祭礼(このころには松嘩子はまだ祭礼化していなかったが)の様相を検討した。さらに豊臣秀吉によってなされた博多の町割によって、流(ながれ)と呼ばれる七つの町組が江戸初期までに成立したことを明らかにした。江戸時代から近代までの両祭礼は七流によって運営されており、各流では一年交替の当番町を設け、これが費用負担を受け持つなど、流の祭礼運営の中心となっていた。
 祇園山笠については、その開始に先立ち、この祭礼に出される山笠と呼ばれる作り山を作るために毎年様々な物品と技術が必要とされた。それらはすべて博多の商工業者から賄われた。そのため博多内で金銭が活発に融通した。祇園山笠が始まると近在近郷からこれを観るために大勢の観光客がやって来て宿泊をしたり諸物品を購入したりした。彼らの消費行動により博多外部から博多へと金銭が集中した。毎年決まった時期に祇園山笠という大規模な祭礼をおこなうことで、博多の経済が活性化したのである。多数の人口を養っていかなければならない都市社会にとって、これは重要なことであった。
 松嚥子についても同じことがいえる。とくに寛保2(1742)年に福岡藩から両祭礼にいくらかの助成金が支給されるようになってからは、松嚥子には多数の作り物や芸事が出されるようになり、大規模化した。そのため祭礼の準備に関係する諸産業(祭礼産業)と観光客相手の諸産業(観光産業)も拡大した。
 両祭礼の準備と実施は博多の経済構造の一部をなしており、経済面で博多という地域社会の繁栄と再生産に寄与した。
 大勢の観光客を集めるためには祭礼を魅力的なものにしなければならない。大規模で美しい祭礼を反復 するためには、複雑かつ機能的に組織された大きな集団と、統制の取れた集団行動と、高度な技術を伴う手工業とが必要とされる。
 都市に住む大勢の住民こそは都市最大の資源である。これを可能なかぎり多く動員することで大規模な祭礼は実現される。両祭礼の実施にさいしては、町と流、そして町ごとに存在した年齢階梯制(男性のみの結社)が祭礼組織として機能し、多数の住民を動員した。動員された住民たちは厳格な上下関係のもとで各自に要求される役割と規範に従って行動した。こうして両祭礼を通じて社会教育がなされ、人材の育成が実現された。一方、各種の優秀な手工業者を動員することで美しい祭礼は実現される。両祭礼の準備にさいしては博多の手工業の粋が集められた。両祭礼の実施は博多の手工業の技術の発展を促すことにも繋がり、博多の製品の価値を高めた。
 大規模な祭礼を実施するには政治権力の協力も不可欠である。藩政期には福岡藩が両祭礼の実施に協力した。とくに享保17(1732)年の大飢饅後、衰退してしまった両祭礼の復興に福岡藩はカを尽くした。これはかなりの成果を挙げた。
 廃藩置県後、福岡県や福岡市(1889年、福岡と博多を市域として成立)は祇園山笠の実施には協力的ではなかった。経済活動の近代化や都市の近代化の障害になるとしてその実施にしばしば圧力を加えたのである。しかし明治末期ごろからは観光資源として祇園山笠を振興する動きが行政側にも徐々にみられるようになった。これは、行政の望みにもかかわらず、近代の博多(より正確には福岡市全体)には大規模な工場や企業がほとんど設立されず、昔ながらの小規模経営の商工業者が多く、そのため祇園山笠(および松灘子)を中核とする経済構造の必要性が衰えなかったためである。
 ところで明治末期以降の日本では慢性的な不況が続き、博多においても町々の経済力が低下し、舐園山笠の実施は困難になっていった。このような状況を受け、祇園山笠関係者の働きかけで昭和前期になると福岡市と地元財界は祇園山笠にたいする補助金を山笠当番町(祇園山笠には、ほかに能当番町があった)に交付するようになった。祇園山笠の意味づけが「博多の」祭礼から「福岡市の」祭礼に変わる第一歩を踏み出したわけだが、この意味づけは戦後の祇園山笠再編のさいに前面に出て来ることになった。祭礼集団が祇園山笠を継続するために、その舞台を必要におうじて博多といったり福岡市といったりする言説上の戦略を採るようになったからである。
大規模な祭礼を実施するには多額の金も準備されなければならない。両祭礼とも各種の当番町が費用を用意したが、とくに山笠当番町の負担は大きかった。江戸後期の二つの個別町と近代の一つの個別町を例にそれぞれの町内における山笠当番費用の徴収法を解明した。その方法は三者三様であったが、いずれの町においても当番費用負担者層と当番運営者層とは原則的に一致しており、かつそれらは日常生活における町の活動の運営者層(江戸時代には町中(ちょうじゅう)と呼ばれた)とも一致していた。そしてそれらの層が町内に存在する家屋敷の所有形態・借用形態の変化に伴い変容したという事実も解明した。
 大規模な祭礼を実施するには信仰の共有も必要である。ただし両祭礼とも信仰の内容は変化した。松離子はほんらい単純な福神信仰にもとつく祭礼であったはずだが、18紀中期までに、近隣村落で広くおこなわれていたトビトビという儀礼の影響を受けて交易神と水神という神格が付加された。祇園山笠は疫神を歓待し鎮送することで疫病の発生・流行を予防する祭礼であったが、明治中期に創出された祇園山笠の起源伝承にもとづき、これに変化が生じた。その伝承というのは鎌倉時代の博多に発生した悪疫をある僧侶が退散させたというもので、その僧侶の悪疫退散の行動を模倣することで疫病の発生・流行を予防できると信じられるようになった。両祭礼とも、変化後の信仰も博多の住民に広く受容された。そして両祭礼を繰り返すことで信仰の共有が確認された。
 結論としては、両祭礼には以下のような機能があり、相互に密接に結び付いていたといえる。第一に、博多内での成員の社会教育がなされるとともに社会構造の維持がなされた。第二に、博多と周辺村落との社会的・文化的関係の維持がなされた。第三に、毎年特定の時期に博多に富が集中したので、博多の経済活動に役立った。第四に、博多内での信仰の共有が確認された。なお本論文では詳述できなかったが、これらの機能は今日でも多少は存続している。, 総研大乙第173号}, title = {都市と祭礼の宗教社会史的研究 --博多の祇園山笠と松囃子を例に--}, year = {} }