@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00001402, author = {澤田, 晴美 and サワダ, ハルミ and SAWADA, Harumi}, month = {2016-02-17, 2016-02-17}, note = {本論では、 「伝統文化を現代の学生にどのように教えるべきか」という問題意識に発し
て、「なぜ代表的な古典の一つに近松門左衛門があげられるのか」、 「代表的な日本文化
の一つとして歌舞伎や人形浄瑠璃が取り上げられるのは何故か」などの疑問、つまりは「伝
統演劇は現代にどのように生き残ったか」という問題を考察した。
  考察にあたっては、前近代の事象の近代における「読み替え」と、演劇の特性である「記
憶される舞台」に留意した。ただし、演劇を特別扱いするのではなく、演劇も同時代の文
化潮流の中にあることを意識しながら、それでもなお演劇故に留意すべき特殊性をあぶり
出そうとした。これまでは、近世演劇研究の分野において、文学としての戯曲研究、劇評、
役者や演出家の芸論が、近代以降も視野におさめて、総合的に扱われることがなかったこ
とを踏まえて、その不足を補うために出来る限りそれらを対等に議論の俎上にのせた。
 第一章では、近松門左衛門の晩年の最高傑作とされ、現在でも上演される「心中天網島」
を事例として、近松の古典としての評価と、伝統演劇としての上演がいかなる関係にある
かに注意を払いながら、近松作品の改作を概観した。近世における近松作品が自由に改作
されているのは、先行作を変更することが趣向になるという近世の作劇における意識と、
人形浄瑠璃の舞台技術の変化や人形浄瑠璃を生身の役者が演ずる歌舞伎に置き換えるため
に生じる変化など、作者以外の要因が作品に影響を及ぼすためであった。近代に入り、近
松の評価が高まると、近松の「原作通り」の上演が模索されるが、歌舞伎においても、近
世期に舞台技術が変化した人形浄瑠璃においても、「原作通り」の上演は「初演通り」と
ならず、改作が行われた。その一方で、近世期に改作上演を繰り返すうちに定着した演出
が型となって伝承され、それを観客が期待する故に「原作通り」の演出の中に改作の演出
が併存するという状況を生み出し、さらに現代の研究者による近松の原作に対する研究成
果が反映して、古典化された近松のオーセンティシティと伝統演劇のオーセンティシティ
がぶつかり合いながら、現代においても近松作品の「伝統的な」上演の創出が行われ、そ
れが伝統演劇として受容されていく姿を明らかにした。また近松作品の近世期の改作は趣
向を重視した「より新しい改作であり、近代の改作は原作に忠実な「より正しい改作」
をめざすという違いがあることを指摘した。
 第二章では、近代的な戯曲(演劇)研究の嚆矢として、坪内逍遙の近松研究をとりあげ
た。逍遙が近松を取り上げたのは、近世期に作者として評価されていたこと、明治の知識
人にとって身近な江戸後期の戯作者が上演と関係なく古典として既に引用し、近代の文学
における「作者に通じるものとして近松を読み替えることができたからである。近松は
近世期では扱われなかったアカデミズムの分野で、戯曲を重視し、原作を尊重し、登場人
物の性格を重視した近代的な手法を用いて評価されるようになった。しかし、近代の知識
人による上演と切り離した戯曲研究が、実際に上演された戯由に対しては必ずしもうまく
適応できたわけではなかったのは、戯曲と舞台の関係を完全に切り離せなかったからであ
る。
 第三章では、二章でみたアカデミズムにおける戯曲を文学として批評することが、観客
の視点にどのように関わるか、劇の批評の出版物こしてのジャンルの性質に注意を払いな
がら考察した。近世と近代の劇評は、どちらも舞台の批評ではあるが、その性質の違いは、
近世の劇の批評は役者の新しい工夫を評価の基準に置き、近代は正しく戯曲を表現してい
る型(演出)を評価の基準においた。その一方で、近世において行われた役者の出演歴や
芸系に関心を持った役者の批評は、近代の「型」という批評方式に通じるものとなって、
読み替えられた。それは、舞台が記憶され、過去を参照するという演劇の特質によるもの
である。しかし、近代に入っても様々な型が伝承されていたにもかかわらず、正しく戯曲
を再現するという基準で取捨選択されために、近代以降にオーセンティックな伝統演劇の
演出が創造されることになったことを指摘した。また、近代に入って新しい劇評の方針と
して戯曲を重視するようになるが、そのような劇評家も実は「通」な観劇態度を全く否定
していなかった。この通の視点は、「伝統」と深く関わる可能性があることを指摘した。
 第四章では、近松の言説「虚実皮膜論」と近代に移入された「リアリズム」について比
較考察を行った。近世近代にかかわらず役者の身体表現を中心に重視されたリアリティは、
近世においては「情」の表現が重視され、近代では「情」や「心」は近代的な作品批評に
重要な「性格」や「内面の表出」につながるものとして読み替えられた。このような近松
の芸論の読み替えによって、戦前から戦後にかけてリアリズムを指針とする新劇と同時代
の演劇として、また日本民族の正しい演劇として歌舞伎を改革する者たちにとって近松は
重要な理論の下支えとなった。また、近松作品が義理と人情の葛藤を描いているという近
代の評価は、近代以降の虚実皮膜論の解釈にも及び、さらに日本の文化の特色を体現する
ものとして見られるようになった。そして、近松の評価の高まりとそれに伴う影響につい
て考えるには、明治期の国民国家形成期ではなく、戦後に目を向ける必要があることを指
摘した。
 以上の考察を通して本論は、伝統演劇である歌舞伎、人形浄瑠璃を、複雑な「断絶・継
承・再生」を繰り返しながら、過去の遺物ではなく現代にも生きているものとしてとらえ
直した。
 歌舞伎や人形浄瑠璃は、近世における現代劇から、近代においては演劇の中の一ジャン
ルとして確立され、その表現様式を保持した。ジャンルとしての様式を保持しているため
に伝統が保証されているように思われるが、実際は舞台装置や演技においては変化し続け
ている。それでも伝統的だと感じさせるのは、第二章で見たように近世期において近松を
作者とすることが、近代の文学における「作者」につながり、第三章でみたような近世の
役者の芸や作品の筋についての豊富な知識と観劇体験が、正しく戯曲を表現する「型」と
いう近代の批評基準につながり、第四章でみた近世において重視された「情」が近代の「性
格」につながったように、前近代の事象で近代が受容出来そうなものを巧みに読み替える
ことで、前近代の視点を完全に捨て去ることなく伝統を創るというシステムが機能してい
たからである。
 伝統や古典は近代に巧みに創り出され、前近代の伝統や古典の価値が現代に至るまでそ
のまま継続していると「幻想」をいだかせる。しかし、第一章や第四章六節で例示したよ
うに演劇が過去の舞台を参照し、その過去が役者の身体に宿り、観客はそれを記憶し、実
感を伴って伝統を感じさせる性質を持っており、近現代人にアクセス可能なものとして考
えられるようになった。, application/pdf, 総研大甲第1210号}, title = {近代日本文化における伝統演劇と近松門左衛門-アカデミズム・劇評・役者の身体}, year = {} }