@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00001484, author = {加藤, 征治 and カトウ, セイジ and KATO, Seiji}, month = {2016-02-17}, note = {本論文は、依然として戯曲研究や役者研究といった「芝居を演じるもの」に関係する研究に歌舞伎研究の重点が置かれていることに対して、研究の重要性は理解できるものの、歌舞伎が興行物として昇華できたのは、歌舞伎を取り巻く社会にそれを形成させる土壌が存在していたはずであるとした問題意識から端を発した。
 すなわち「芝居を支えるもの」たちの存在である。そこで「芝居を支えるもの」の視点から「歌舞伎の本質とは何か」という命題に対するアプローチをはかるための素材として①演劇書(第1章)、②振付師(第2章)、③観客(第3章)、④幕府の対芝居町政策(第4、5章)の4つの視角を提示し検討した。

   第1章 演劇書
 『月雪花寝物語』は天明期の役者社会を知る好材料のため、諸方面の研究において利用されてきた。その際に、ほとんど史料批判されることがなかった。しかし歌舞伎研究においては特に有用な史料であるからこそ、書誌段階での丁寧な整理作業が求められる。
 現存する『月雪花寝物語』は東京大学総合図書館所蔵本、国立国会図書館所蔵本、演劇博物館所蔵本、西尾市立岩瀬文庫所蔵本の四本が確認される。
 それぞれの抄写本の構成を検討した結果、『月雪花寝物語』を扱うに際しては、演劇博物館所蔵本もしくは東京大学総合図書館所蔵本を基本とし、これに欠落している部分を西尾市立岩瀬文庫所蔵本で補うことが、最善の活用方法であると結論づけた。

   第2章 振付師
 振付師をみるにあたって志賀山流に着目した。これは志賀山流が江戸で最初に振付師を専業化した流派であったためである。
 従来の研究では三代目中村仲蔵の『手前味噌』を基に志賀山流の系譜が作成された。三代目仲蔵にとって、草創期の志賀山流については伝聞であったため、誤認していることが多かった。そこで初代仲蔵の手記から抄写された『秀鶴随筆』や柳沢信鴻の『宴遊日記』を基に『手前味噌』に依拠した志賀山流の系譜に修正を加えた。
 その結果、初期の志賀山流宗家は初代中村伝次郎を祖とする「伝次郎系」と初代志賀山お俊を祖とする「お俊系」の二派があり、両派は初代志賀山勢以を祖とする「勢以系」に吸収されるまで並存していたことを明らかにした。
 芝居の見物客に関する研究の多くは、評判記や演劇書といったものに登場する仮想の見物客もしくは隠居大名や規模の大きい商家などかなり上客の日記を中心にしたものであった。そのような研究状況のなかで、鼠木戸から入る一般の見物客の史料として、旅日記が有効であることを示した。

   第3章 観客
 近世の観客にとって芝居見物とは芝居小屋の建物も含めて見物であった。これは芝居小屋が周囲の家屋と比べて一際巨大な建物であったことと、また小屋前の装飾、賑やかな雰囲気が建物自体も見物の対象にさせたためである。
 旅日記の分析を通して新たな知見を得たのは入場方法であった。一部の旅人は鼠木戸から小屋に入るものの、その手続きは芝居茶屋をとおして行われた。これは芝居の出来不出来に左右されやすい茶屋の経営は桟敷席を利用する上客のみでは安定した利益を見込めないため、旅籠屋など他業者と提携したものと結論づけた。

   第4章 幕府の芝居町政策①
 歌舞伎研究において自明のように認識されてきた「仮櫓」について、その成立過程を検討することで、町奉行所の芝居町に対する認識を明らかにしてきた。結果として、仮櫓は享保19年の森田座の代行として河原崎座が興行したことにはじまり、天明4年(1784)の市村座の時は桐座が代わり、寛政5年(1793)の中村座の時は都座が代わるといったように3回にわたって成立していった。従って中村座の仮櫓に都座、市村座の仮櫓に桐座、森田座の仮櫓に河原崎座とするのは18世紀後半からのことである。
 しかし町奉行所にとって定芝居とは三座のみであり、仮櫓はあくまで三座が再建するまでの暫定的なものでしかなかったため、仮櫓を制度化しなかった。このことは芝居町3町に対し『三芝居狂言座取締方議定証文』を作成させ、町奉行所が特権を与えたのは三座のみであることを、芝居町の名主をはじめ地主・家主、また芝居小屋関係者に対して再認識させたことからもうかがえる。従って町奉行所にとって仮櫓は、どこまでも臨時的特例的な存在でしかなかったと結論づけた。

   第5章 幕府の芝居町政策②
 歌舞伎の歴史において、役者自身が男色売春の商品であったことは事実である。そして芝居町は、劇場街であると同時に男色花街であった。
 男色売春向けのかげま茶屋については、これまで好事的な著作は多数ある。しかし史料に基づいた研究はほとんどなされてこなかった。そこで芝居町の性格を男色花街としてとらえ、検討をくわえることは従来の芝居町に関する研究の欠落した側面を補充するものと考えた。
 芝居町とかげま茶屋との関係を探るために、天保改革による芝居町強制移転が、かげま茶屋に対して及ぼした影響をみた。幕府は芝居町を浅草山の宿へ強制移転させたことによって、かげま茶屋は自然消滅すると目論んだ。しかしそれでもかげま茶屋は旧来どおり営業を続けていた。この動向を幕府は見逃さず、今度は直接かげま茶屋に焦点を当て廃止に追い込んだことを明らかにした。

 以上の視点から検討した結果は、「芝居を支えるもの」に関する研究の重要性を示し内容の充実に寄与したばかりか、今後の歌舞伎研究の発展にも大きく寄与したものであるといえよう。しかし当然のことながら「芝居を支えるもの」の視点は、上記に取り上げたものにかぎらない。今後も多方面からの分析がおこなわれることで「芝居を支えるもの」の視点は広く展開する。そのためには、今後もさまざまな研究領域から歌舞伎研究における「芝居を支えるもの」の研究に対して積極的にアプローチをおこなうことで、内容の充実が求められていることを提言した。, 総研大甲第1270号}, title = {歌舞伎文化と幕府の芝居町支配}, year = {} }