@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00000016, author = {寒水, 明子 and カンスイ, アキコ and KANSUI, Akiko}, month = {2016-02-17}, note = {本論文では、1980年代末にエストニア共和国南部のヴォル地方ではじまった地域主義運動について、運動の担い手である知識人に焦点をあてて分析する。ヴォル地方はロシア共和国、ラトヴィア共和国と隣接し、人口の8割以上をエストニア系が占めている。彼らはヴォル人と呼ばれ、彼らの話す言語はヴオル語としてエストニア語の南部の諸方言に分類されている。ヴォル人やヴォル語という区分は、一般的にはエストニア人やエストニア語の下位概念として用いられているために、政府の統計資料などには「ヴォル人」といった民族範喘はなく「エストニア人」として一括されている。  第一章では、ヴォル地方とエストニア国家との関係の変遷を追う。13世紀のドイツ騎士団による征服以来エストニアは異民族に統治され、現在「エストニア人」と呼ばれている人々は農奴としてドイツ人荘園領主の支配下にあった。行政単位としてのヴオルが形成されるのは帝政ロシア時代(1783年)である。19世紀の民族覚醒期には標準語の制定や民俗資料の収集、民族叙事詩の創作などの文化運動を通じて「エストニア人」という民族意識が創られた。エストニアの独立期には、教育や各種の文化政策、マスメディアを通じて国家対地方、標準語対方言という上位概念と下位概念が人々の間に浸透した。ソ連併合後はソ連の民族政策や言語政策のもとで、エストニア人対ロシア人、エストニア語対ロシア語といった対立が人々の関心事となり、標準語の教育が徹底して行われた。ソ連からの独立回復後、エストニアは国家全体として見れば、バルト海を挟んで北欧諸国と接しているという地の利を生かして急速な経済発展を遂げている。しかし、ヴォル地方では逆に過疎や頭脳流出と言った社会経済的な問題が浮上している。  第二章ではヴォル出身の知識人について、19世紀後半に大規模な民俗資料収集活動を組織したヤーコプ・フルトとソ連時代の知識人ヘツラ・ケーム、そして現在のヴォル出身知識人の活動を対比させながら論じる。フルトは、政治的にも人口的にも弱小なエストニア人が周囲の民族に同化されずに存続するためには、「精神的に偉大になること」が重要であると説いた。彼はまた、民族意識にとっての言語の存在を重視し、エストニア語の標準化につとめた。独立期からソ連時代にかけて方言学者として活躍したケームは、民族覚醒期から独立期に形成されたイデオロギーを継承して、方言が標準エストニア語を豊かにする宝庫であると考えていた。ケームはソ連時代、現場のエストニア語教師による方言敵視の風潮に対して方言の擁護者であり続けたが、彼女の思想の中には方言を尊重し、擁護すべきであるという主張はあっても、方言を日常生活の中で積極的に使用すべきだといった主張はみられない。これに対して現代のヴォル知識人達は、ヴォル語を教育やマスメディアにおいて積極的に使うことを主張している。彼らのほとんどは、高等教育を受けるためにヴォルを離れ、ヴォルから北へ約60キロ離れたところにある都市タルト在住である。そのため彼らの運動は、しばしば地域住民からの反発を受ける。第二章ではその一例としてヴォルのローカルなラジオ局でヴォル語の番組制作にかかわっていたカウクシ・ユッレが、地元からの攻撃を受けてラジオから撤退した事件をとりあげ、知識人と地域住民との葛藤を描写する。  第三章ではヴォルの運動の中心的課題といえるヴォル語について、方言化の経緯と新正書法の提案をめぐる諸問題を中心に検討する。ヴォル語は19世紀末から今世紀初頭にかけての標準エストニア語の形成過程において方言となり、エストニア語とヴォル語の標準語と方言という関係は独立期からソ連時代を経て定着する。もともとヴオル語には決まった正書法がなく、基本的にはエストニア語の正書法を代用し、あとは書き手の判断によって発音の補助となるような符号をつけていた。ヴォルの知識人達はヴオル語独自の正書法(新正書法)を考案したが、地域住民にとってはなじみがないアルファベットや符号を使用する新正書法は不評である。また、新正書法ではエストニア語では使用しないアルファベットを使用していることから、ヴォル語をエストニア語の方言とするイデオロギーが定着した人々にとってはにわかに受け入れがたいものがある。  第四章では、具体的な運動の内容を記述する。知識人達は、ヴォル語による読み書きを推進するためにヴォル語の暦や読本などの出版事業、児童生徒によるヴォル語の作文コンクールを行っている。毎年夏にはカイ力夏期大学を開催している。これは、ヴォル語を日常会話だけでなく公式の場で学術的な内容を話す際にも使用する試みであり、同時にヴォル語やヴォル地方の諸問題について知識人が地域住民と意見交換をする場となっている。一連の運動の結果、1995年には国立のヴォル研究所がヴォル市に設立されたが、文化面を重視した知識人達の運動は、社会経済的な問題の解決を望む地元の要請とは必ずしも合致していない。  第五章では、第一章から第四章までの議論をふまえた上で、ヴォルの知識人が分節化した地方アイデンティティと言語の関係について論じる。ヴォルの運動において常に中心的な位置を占めているのはヴォル語である。なぜならヴォルの人々は言語以外の面ではエストニア人に同化しており、少なくとも日常生活においてヴォルの伝統文化に接する機会はほとんどないため、ヴォルの独自性を強調する運動の要素としてはヴォル語が相対的に重要になってくるからである。しかし、言語を中心的なテーマに持ってきたために、ヴォルの運動は、国家語としてのエストニア語と方言としてのヴォル語という従来のエストニアのイデオロギーに反するために、地域住民からの反発を受ける。知識人達の対応は、ヴォル語をむしろ少数言語として積極的に主張することによってエストニア語との関係を切り離し、従来のイデオロギーからの脱却をはかるタイプと、国家と地方というエストニアとヴォルの関係を容認しつつもヴォル語をエストニア語の方言ではなく地域語として主張するタイプに分けることができる。双方ともロシアや西欧の少数言語集団の動きに注目し、連帯をはかっている。  近年西欧を中心にいくつか萌芽の兆しがみえる国家への統合が比較的進んだ集団の運動は、60年代や70年代の社会運動にくらべると、表面的には「盛り上がらない」印象を受けるため、これまで研究対象としては見過ごされがちであった。だが、「地味な運動がある」ということは「運動がない」ということと同義ではない。ヴォルの運動は、言語と集団のアイデンティティを一致させようとする点では非常にヨーロッパ的な事例である。だが、ヴォルの運動では、言語を中心とした国家形成や分離、自治の要求ではなく、少数言語集団や地域語としての認知要求や話者への啓蒙といった「地味」な主張をしており、それは現在西欧を中心に起こりつつある新しいタイプの運動に共通する特徴である。「地味」な運動の研究は、ヨーロッパの統合と分離という流れの中で、言語と民族、国家を結びっけてきたヨーロッパの近代国民国家イデオロギーによって塗り込められてきた他者の存在をどうとらえていくかという問題なのである。, 総研大甲第358号}, title = {地域主義運動における言語と知識人 -エストニア南部ウ゛ォル地方の事例から-}, year = {} }