@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00001642, author = {梅, 定娥 and メイ, テイガ and MEI, DINGE}, month = {2016-02-17}, note = {本論文は、「抗日愛国」とも「政治立場が反動的」とも評されてきた「満洲国」の代表的
作家、古丁の生涯と、その翻訳、創作、編集出版にわたる活動のほぼ全容を初めて明らかに
したものである。古丁の単行本5点(うち創作1点、翻訳4点)をはじめ、多数の創作、翻
訳、エッセイを発掘、確認し、周辺雑誌、周辺作家の作品を調査し、近親者、関係者の証言
も集め、「満洲国」政府の政策や文化実態の変化と関係づけて、作家の思想的変遷をたどり、
その内実に迫りえたと考えている。
 本論は「序」、第1部「古丁の生涯」、第2部「翻訳活動」、第3部創作活動」、第4部「編
集出版活動」、第5部「結び」の5部で構成する。以下、1、北平時代 2、『明明』期、3、
事務会『藝文志』時期、4、芸文書房時期に分けて略述する。
1、北平時期(1932-1933)。長春の比較的裕福な家庭に育ち、満鉄の経営する小学校、中学
校で日本語の能力を身につけた古丁は、満洲事変の勃発時に北京へ逃げ、北京大学の学生と
して、世界的大恐慌と無産階級革命運動の隆盛のまっただなかで一挙に中国左翼作家聯盟の
リーダとなり、日本プロレタリア文学作品や文芸理論を翻訳し、中国共産党が導くストライ
キヘの応援と中国プロレタリア文学の理論建設と創作実践に尽力した。しかし、逮捕され、
重要な会議の情報を官憲に漏らしたという疑いをもたれ、傷心を抱いて郷里へ戻った。
2、『明明』期(1986・1938)。この時期の古丁の思想状態は「苦悶」と「闘い」の2つのキー
ワードで示すことが出来る。「苦悶」の原因の第1は、革命運動に失敗したこと。第2は、「満
洲国」で復活した「封建」制と植民地支配からの圧迫、第3は、日中全面戦争の開始である。
「闘い」の第1は、自分との闘い。酒に溺れ、絶望に陥りそうになりながら、希望を失わず
常に自己更新を図ろうとした。第2は、政府筋の「満語」大衆娯楽雑誌の企画を総合雑誌に
転換させて『明明』を創刊し、さらに仲間たちと実権を握って新文学建設のための文芸雑誌
に転換した。また日本人の出版経営者に協力して、「満語」文芸書を刊行しつつ、旧文芸を
批判し、山丁らの「郷土文芸」の主張に対して論争した。第3は、青年を抑圧する礼教を重
んじる「封建」制、農民の悲惨な運命と「味を失った塩」のような民衆の状態を描き、それ
を強いた「満洲国」の政策を、創作を通して批判した。
3、事務会『藝文志』時期(1939-1941)。この時期の古丁を分析するキーワードは「転換」と
「漢話」である。「転換」の第1は、個人的心情の変化。毛沢束の「持久戦を論ず」から影
響を受け、暗闇の中から自信を取り戻し、「明日」への信念を持ち、着実に前進する詩人に
なった。第2は、民生部の外局である満日文化協会の応援を受けて、文芸誌『藝文志』を創
刊、「魯迅著書解題」を翻訳し、読者の精神改革のための文学、広い視野からの社会批判の
文学の方向に進んだ。第3は、作家、作品、読者(社会)三者の関係を反省し、自分をモデ
ルにした知識人青年の内面から底辺を含む市民の生活にテーマを変えていった。
 「漢話」については、母語での創作を主張し、政府の日本語教育優遇政策、漢話の注音符
号の廃止に反対した。ただし、単なる保守ではなく、句読点の使用や語彙や表現の開拓のた
めに、自ら夏目漱石『心』の翻訳などに大胆すぎるほどの実験を試みた。
 この時期、古丁の創作が各種の文学賞を受賞し、「満人」文芸を代表する作家として日本
に派遣されるなど名声があがったが、政策批判や上層部への反抗的態度も日立ち、憲兵に監
視されるようになった。ペストの流行から病院で隔離生活を送ったのち、孤立感を覚え、ま
た官庁の再編に伴い、地方に転勤しようとしていたが、病院の生活で文化レベルの低い民衆
の実態を改めて認識し、漢民族の向上心と民衆の文化レベルを高めるために、民間人として
出版社を経営し、文学の道を守る決意を固めるに至る。
4、芸文書房時期(1941年秋以後)。下級官吏の職を解かれたに等しい状況に置かれ、「背水の
陣」で仲間たちと1941年10月に株式会社芸文書房を設立、計算が下手で営利に疎い古丁が
自ら社長となった。印刷技術の制限や統制経済による紙不足など悪条件の中で、民衆の読書
生活を養うため、また満洲文学の発展を促すために厳選した書籍を出版、販売していった。
 1941年12月、日本対米英戦争が勃発すると、古丁は長期戦を覚悟し、「満洲国」建国十
周年行事や「第二建国」の呼びかけ、「大東亜共栄圏」の模範たれの掛け声に応じて、「満人」
民衆に傍観的な態度を反省し、積極的に仕事に取り組み、発言しようと呼びかけながら、「満
人」の発言権と参政権、対等な関係の実現を要求していった。三度に及ぶ大東亜文学者大会
にも参加し、とくに第二回大会では、かねてから主張していた編訳館の設立を提唱し、採択
された。日本の敗色が濃くなっても、積極的に国策に協力しながら「民族協和」の内実につ
いて正面から批判を行い、また言論統制をかいくぐり、裏側に批判を潜めるやり方で創作、
評論を続け、日本が引き上げた後の準備を読者に訴えるようになってゆく。
 このように社会状況と「満洲国」の政策の変化に応じて古丁の言動に変化は見られるが、
日本側が掲げる「民族協和」の理想に沿って、対等な関係の実現を要求し、「大中国」への
帰属、中国語とその文学を守り、かつその表現を豊かにする追求、そして「満洲国」の現実
を批判する姿勢を貫いた。これは、しばしば言われてきた表面的な服従を意味する「面従腹
背」とも異なる姿勢であり、「満洲国」の現実をしたたかに生きた作家像が浮かんでくる。, 総研大甲第1307号}, title = {「満洲国」文化人古丁の思想的変遷をさぐる―翻訳、創作、出版}, year = {} }