@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00000019, author = {中田, 友子 and ナカタ, トモコ and NAKATA, Tomoko}, month = {2016-02-17, 2016-02-17}, note = {本論文の目的は、南ラオスのモン・クメール系集団の村落社会におけるミクロな政治過程を、特に彼らの伝統とされている威信をめぐる闘争に焦点をあてながら、同時に現在の国家権力との関係を視野に入れ明らかにすることである。  この地域のモン・クメール系集団の村落は、かつてはこれを超えた社会・政治組織をもたない独立した社会を形成していたとされている。そして村落内部は権力者が不在で階層が未分化の、平等主義的な性格をもっていたことで知られている。しかし一方では、主に水牛供犠による威信の獲得を目指して競争がくりひろげられていた。本研究の対象であるK村は、内戦の戦火を逃れて1966年に移動してきた、モン・クメール系集団の一つ、ンゲの人々によって、町からも近い幹線道路沿いに作られ、国民国家としてのラオスに組み込まれている。そして現在では、ラオやタリアンなど複数の民族集団の人々が共に住むようになっており、かっての伝統的な社会のあり方とは大きく異なっているであろうと推測できる。また、1975年の革命による社会主義国家ラオスの誕生、さらには1980年代半ばから始まる経済開放政策といった村落社会をとりまく状況の変化も影響を及ぼしているであろう。  本論文では、威信や名誉、あるいは権威といった、東南アジア大陸部の山地民においては主に水牛供犠とそれに付随する祭宴の主宰によって獲得されるものを、ブルデューに従い象徴資本と呼ぶことにする。象徴資本を投入して行われる象徴闘争は、社会世界を知覚する仕方となる表象を強要するために、正統的な世界像を産出し押しつける力、何らかの社会区分の見方を押しつける力を巡って行われる。というのは、強力な象徴資本の保有者は自分にとって最も有利な価値体系を他者に対して押しつけることができるからである。その意味で、象徴資本としての威信、名誉、権威といったものは、現実的な政治的効果を、直接には観察困難であるが、もっていると考えられる。本論文では、象徴闘争が政治過程の一部を成しているという立場にたって、村落内部においてどのように象徴闘争が行われているかを分析し、K村におけるミクロな政治過程について考察する。  現在のK村では、水牛をまるごと一頭供犠することはほとんど見られない。経済的に負担が重すぎることがその最大の理由として挙げられる。しかし、権威や威信、名誉は異なる形をとって獲得されている。大きくりっぱな家屋を建てることは一つのその手段である。また、テレビをはじめとする耐久消費財も現在のK村においては一種の象徴資本とみなされるであろう。家屋や耐久消費財を獲得するには多額の現金が必要であるが、現金はそのままの形で蓄積されても資本としては機能しない。K村の各家はさまざまな戦略を用いて現金を獲得しようとするが、それは象徴資本としての家屋や耐久消費財を手に入れるためである。  縁組み、結婚、葬儀なども各家にとって威信や名誉の獲得の機会であり、象徴闘争の場である。縁組みの場面では男性女性双方の家同士が婚資の額などを巡って交渉を行う。結婚に関してはラオの慣習に従って、結婚後の居住に関係なく男性側から女性側へ婚資が支払われ、結婚式もラオ式の儀礼が行われることが現在K村では通例となっている。葬儀は土葬が普通であるが、ある長老は遺言で仏教式の火葬を望んだため、仏教式に行われるということが起こった。結婚と葬儀において、このようにラオの影響が見られるが、それは「ラオの慣習」と「ソン・パオ(少数民族を意味する)の慣習」のどちらを選ぶがという慣習の選択の問題ではなく、威信や名誉の獲得や、労働力の獲得・確保といった経済的な面での家の戦略と照らし合わせて、最良と考えられるやり方を、時には二つを混合させながら選んでいるのである。  さらには、キー・カポと呼ばれるココヤシの殻を使った占いも象徴闘争の場と考えられる。主に病気の原因と対処法を知るために行われるこの占いでは、病人の家族とその他の村人たちで構成される参加者たちによってさまざまな解釈が提示され、最終的には一つの解釈にまとめあげられていく。そこでは個人や家に関して、日常的に村内部で語られる評判が持ち出され、病気の原因とされた個人やその家の評判は明らかに引きずり落とされる。つまり、その名誉や評判が失われるということである。  このような象徴闘争の一方で、村は全体の統合性や紐帯を再生産していく。それは、村の行事として催される守護霊祭祁や儀礼において特に顕著となる。これらの機会には、すべての家の参加が義務づけられ、また村の水牛供犠祭りのときには長老らをはじめとする村人たちを家に招くことがよしとされる。K村では村の統合性や紐帯を強化あるいは再生産するだめの論理は「連帯」(ラオ語でサーマッキー)ということばに集約される。この「連帯」ということばはもともとは社会主義政府によって、農業の集団化や協同組合導入のために用いられたが、K村に入り浸透したときには独特の使われ方をするようになった。例えば、村の守護霊祭記や儀礼への参加以外にも、家同士の相互扶助などを促し、あるいは説明する場面でもこのことばは頻繁に用いられる。そして、人々が皆これを盛んに口にすることからも、これが力をもったディスコースとなっていることは明らかである。このように村の統合性や紐帯を強調するということは、村が明確な境界をもった単位として外部の人々あるいは集団によって表象されると同時に、行政に対し働きがけや交渉を行う、みなされるということにも関連している。  一方で、「開発・発展」ということばもK村で盛んに聞かれ、これは明らかに国家政策と関わっている。「連帯」ということばも、また「開発・発展」ということばも、隣村をはじめ外部の村と対比しながらK村について村人たちが語るときに用いられる。こうした語りによって「連帯した」、「発展した」村というポジティブな自己イメージが創出されていく。それは、精霊祭祁を行う「遅れた」村というネガティブなイメージをK村に対し付与しがちな周囲の仏教徒や行政職員に対するK村の人々の対抗の表れであり、同時に村内部に対しては現状の政策や制度を肯定し、これに対する抵抗を困難にするためにも貢献しているといえる。特に電気や井戸、トイレの導入に際して、大多数の村人が望んでいなかったにも拘らず、これが導入され、そして皆が従ったという事実は、「発展・開発」と「連帯」のアイスコースのK村内部における強力さを物語るものである。  国民国家ラオスの一部をなすK村は、村としての固有の政治的、法的制度をもっことができず、国家はメディアや行政職員を通じて村人たちに働きかける。しかし、一方で国家が村内部におけるすべての政治過程を支配し決定しているわけではないことも事実である。そこには村固有の権威の配分と、それと結びついた形での権力作用があり、村を現実的に方向づけでいく。国家政策と結びついて流布されることばも、村に入ってからはその村固有のディスコースとなり、もとの意味からは相対的に独立した形で力をもつことになる。, application/pdf, 総研大甲第563号}, title = {南ラオス村落社会における政治過程の研究-ンゲの村における「連帯」と闘争-}, year = {} }