@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00002153, author = {佐久間, 俊明 and サクマ, トシアキ and SAKUMA, Toshiaki}, month = {2016-02-17}, note = {本論は、戦前期日本を代表する自由主義的言論人、自由主義者と一般に規定される清沢洌 (1890年2月8日~1945年5月21日)の言論活動と思想を、日本近現代社会思想史、 とりわけ、「自由主義」研究の視角から検討するものである。  本論の課題は、第1に、清沢とはどのような意味で「自由主義」的言論人、「自由主義」 者なのか、明らかにすることである。第2に、清沢の「自由主義」を19世紀~20世紀の 「自由主義」の歴史の中に位置づけることである。具体的には、1930年代半ばの昭和期「自 由主義」論争に位置づけることを目指す。第3に、1910~40年代前半にかけての清沢の 「社会認識」を明らかにすることである。  第Ⅰ章においては、清沢洌の思想形成(1890~1910年代)を検討した。第1に、井口 喜源治が清沢に与えた影響を研成義塾のみならず聖書研究会、東穂高禁酒会、穂高教友会 も含めて検討し、その結果、清沢が熱心かつ理想主義的な無教会派クリスチャンであり、 キリスト教社会運動にも関わっていたことを明らかにした。第2に、新発掘の史料の成果 を活かして清沢のアメリカでの足跡をより精緻に解明し、さらに、「贖罪」思想に納得でき なかった清沢は、渡米期にキリスト教「信仰」を捨て、同時にアメリカにおける研成義塾 のネットワークから「離脱」することになったが、彼の中には価値判断の基準となる「モ ラルとしてのキリスト教」と井口から学んだ「信念」という精神的支柱が根強く残ってい たことを指摘した。第3に、約12年に及ぶアメリカでの生活の中で「自由主義」の原型―― 自我の確立・権力からの自由・漸進主義――を獲得したことを明らかにした。  第Ⅱ章においては、新聞記者時代(1920年代)の清沢洌の言論と思想を検討した。第1 に、1920年代における清沢の社会認識の基本的枠組みを、「イギリスをモデルとした日本 社会の民主化と国際協調論」と捉え、その国際協調論・日本社会論・モダンガール論を明 らかにした。第2に、①国際協調と世界平和、②普通選挙制と政党内閣、③国家主義・軍 国主義批判を基調とする清沢の「自由主義」が、1920年代後半から、これらの基調を維持 しつつも、二つの側面――①英国労働党やケインズ『自由放任の終焉』の影響を受けて、「新 自由主義」(New Liberalism)も「自由主義」とみなすようなったことと、②「広い意味 の自由主義」は政策ではなく、「フレーム・オブ・マインド」であると主張するようになっ たこと――から変容したことを明らかにした。  第Ⅲ章においては、清沢洌の「欧米旅行」(1929~30年)を取り上げ、第1に、ロンド ン海軍軍縮会議の現地取材を通して、国際協調の観点から「対米7割」比率の主張を一貫 して批判したことを明らかにした。第2に、清沢の世界恐慌認識を検討し、世界恐慌の結 果、「米国の社会主義化」、すなわち、国家による経済への介入が強まると予測していたこ とを指摘した。第3に、この旅行で清沢は、英国の自由主義――①議会政治、②ハイドパ ークのスピーキングコーナーにおける言論の自由と自由討議の精神、③個人のプライバシ ーに介入しない社会の有り様――を「実感」のレベルで経験し、その「自由主義」をより 強固なものにしたことを明らかにした。第4に、イタリア訪問とムッソリーニとの会見は、 ファシズムを指導者・政治思想のレベルで批判するのではなく、それを生み出した社会 構造や国民性のレベルから批判する必要性を清沢に認識させる契機となったことを指摘した。  第Ⅳ章においては、フリーランス時代(1930年代)の清沢洌の言論と思想を検討した。 第1に、昭和期「自由主義」論争を通じて、清沢の「自由主義」が、英国労働党・アメリ カのニューディール政策・スウェーデンの修正資本主義を参照し、「思想」としての「心構 えとしての自由主義」(自由主義の普遍的な部分)と「政策」としての「社会民主主義」(自 由主義の歴史的に変化する部分)の二段構えで構成されるようになったことを明らかにし た。第2に、1930年代における清沢の社会認識を検討し、外交的には日本の膨張主義的傾 向を厳しく批判し、国際協調路線の維持を、政治的には議会政治に不満を覚えつつも擁護 する姿勢を示し、この延長線上に反ファシズム人民戦線論が提起されたことを、経済的に は「社会民主主義」(修正資本主義)を鮮明にし、国家の市場経済への介入を容認したこと を、社会的には滝川事件や天皇機関説事件に代表される言論・思想弾圧事件を批判し、「市 民的自由」を擁護したことを明らかにした。  第Ⅴ章においては、日中戦争下の清沢を「東洋経済新報社のブレーン」として捉えて検 討し、第1に、2回目の「欧米旅行」(1937~38年)を取り上げて、清沢が、海外におい ては日本を擁護せざるを得ないという愛国心の「両義性」ゆえに、これまでの言論活動か ら「逸脱」し、投書活動により現実政治に奉仕したことを指摘した。しかし、自己批判能 力を兼ね備えた「心構えとしての自由主義」を内面化していたがゆえに、たえず「愛国者」・ 清沢は自己批判に曝され、従来の立場に踏みとどまったのである。第2に、『婦人公論』に 掲載された清沢の国際時評を検討し、それが、戦争の目的と事態の進展を「肯定」せざる を得ない状況の中で、一定の批判精神の下、公平な視点から女性を対象に日本を取り巻く 国際関係情勢を冷静な筆致でわかりやすく解説したものであることを明らかにした。第3 に、清沢の外交史研究が、東洋経済新報社と中央公論社の支援と国際関係研究会や国民学 術協会における議論の成果によってなされたことを明らかにした。  第Ⅵ章においては、アジア太平洋戦争下の清沢の言論活動と思想を『戦争日記』(『暗黒 日記』)に焦点をあてて検討した。第1に、戦時下においても清沢の「自由主義」が持続・ 貫徹したことを指摘した。第2に、戦時下の清沢の社会認識と民衆認識については、①革 命を「必須」とみなす認識が、1920年代以来の左右ラディカリズム批判の論理的帰結であ ることを明らかにし、②清沢の民衆に対する批判・反発は、時局に便乗した徳富蘇峰に代 表される「出世主義者」や佐官級の軍人に対する批判・反発と共通する論理からなされて いたことを明らかにした。第3に、清沢の戦後構想を明らかにし、清沢が戦後生きていた ら、片山・芦田内閣期までの芦田均とほぼ同じ位置におり、吉田茂らの守旧派とは異なり、 日本社会の民主化を促進する中道派(社会民主主義)の立場から論陣を張ったというこれ までの先行研究とは異なる試論を提起した。  以上の検討を踏まえて、終章においては、本論の結論として、第1に、清沢の「自由主 義」とは、「思想」としての「心構えとしての自由主義」(自由主義の普遍的な部分)と「政 策」としての「社会民主主義」(自由主義の歴史的に変化する部分)の二段構えから構成さ れていることを指摘した。第2に、昭和期「自由主義」論争に代表的な自由主義者として 「参加」した清沢は、共産主義とファシズムとは異なり、「市民的自由」を追求しながら、 19世紀の経済的自由主義から20世紀の社会民主主義へと「自由主義」の漸進的発展を目 指す思想的位置に立っていたことを指摘した。第3に、清沢が、1920~1940年代前半に かけて「日本社会の民主化」という視点から、左右の全体主義とは異なる、漸進的かつ建 設的な、換言すると、「社会民主主義」的な言論活動を展開したことを明らかにした。 要するに、本論はこれまでの先行研究とは異なる「社会民主主義」者・清沢洌像を提起 したのである。, 総研大甲第1369号}, title = {戦前期日本リベラリズムに関する思想史的研究-清沢洌を中心に-}, year = {} }