{"created":"2023-06-20T13:22:04.405241+00:00","id":2453,"links":{},"metadata":{"_buckets":{"deposit":"2798c6c8-e07d-4077-a8f4-59fa2f06fc00"},"_deposit":{"created_by":21,"id":"2453","owners":[21],"pid":{"revision_id":0,"type":"depid","value":"2453"},"status":"published"},"_oai":{"id":"oai:ir.soken.ac.jp:00002453","sets":["2:426:6"]},"author_link":["0","0","0"],"item_1_creator_2":{"attribute_name":"著者名","attribute_type":"creator","attribute_value_mlt":[{"creatorNames":[{"creatorName":"羽柴, 直人"}],"nameIdentifiers":[{"nameIdentifier":"0","nameIdentifierScheme":"WEKO"}]}]},"item_1_creator_3":{"attribute_name":"フリガナ","attribute_type":"creator","attribute_value_mlt":[{"creatorNames":[{"creatorName":"ハシバ , 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この時代の土器食膳具は儀式・儀礼に使用する「儀器」としての機能になっている。\r\n東日本各地の古代末から中世初頭の土器様相を確認した結果、各地域の土器は、各々が\r\n独自な様相、変化を呈しているのではなく、汎東日本的に、共通する器種構成、変遷が\r\n存在することが明らかになった。その変遷は、10世紀後半以降に確立する「土師質土器」\r\nが基本的な器種構成を保ったまま12世紀代まで存続して使用され続け、12世紀に至っ\r\nて、京都風の手づくねかわらけが導入され、儀器が「土師質土器」から「かわらけ」に\r\n変化する状況を指摘できる。この変化の年代は、平泉勢力圏に相当する福島盆地以北の\r\n陸奥と出羽においては12世紀前葉(1130~50年頃)であるのに対し、陸奥南部と関東\r\n甲信越地方においては12世紀末葉以降で、平泉勢力圏は東日本の他地域よりも「かわら\r\nけ」の導入が約半世紀先行していることが明らかになった。また、東日本における土師\r\n質土器の器種構成、形態変化は、京都の「白色土器」と対応関係があり、土師質土器と\r\n白色土器が共通する機能と概念を有し、いわば土師質土器は白色土器の地方形態と理解\r\nすることが可能である。「かわらけ」の導入は10世紀以来存続している王朝国家的な価\r\n値観を転換させ、新規の価値観が導入されたことを示す。他地域に先行して、平泉勢力\r\n圏でこの変革がなされていることは注目される。関東甲信越・陸奥南部では、土師質土\r\n器からかわらけへの転換は12世紀末の鎌倉幕府成立がその契機と理解される。\r\n\r\n第Ⅱ章 東日本の古代末期から中世初頭の居館\r\n 11世紀代の居館は陸奥奥六郡及び出羽山北三郡の居館を検討した。これらは11世紀\r\n中葉の「安倍氏の居館」と11世紀後半の「清原期の居館」に分類される。両者は立地条\r\n件など共通する点が多く、系譜的には連続すると理解されるが、後者は居館全体を囲画\r\nする堀を有する点が特徴的である。また両者に居館に付随して高地が存在するパターン\r\nがみられ、これは居館の住人の心性を象徴する「信仰対象の山」と理解される。   \r\n 12世紀の居館は東日本全域について検討した。東日本の居館は平泉勢力圏に分布する\r\n「初期柳之御所型居館」、陸奥の磐城付近と関東地方に分布する「関東型居館」、陸奥会\r\n津地方と甲信越地方に分布する「越後型居館」の三形態に分類される。「初期柳之御所型\r\n居館」は居館を囲む堀と連続して位置する「信仰対象の山」が存在し、「清原期の居館」\r\nと系譜的に連続性がある。「関東型居館」は、谷間に面する斜面部に立地し、居館を囲画\r\nする堀はなく、連続する位置に「信仰対象の山」が存在する。「越後型居館」は、周囲と\r\nの地形の区分が見出し難い平野部の中の微高地に立地する。「信仰対象の山」の存在が推\r\n測される場合も、やや離れた場所に位置する。\r\n このように東日本の12世紀の居館は三類型に分類されるが、これは相違点を強調した\r\n分類であり、「初期柳之御所型居館」、「関東型居館」、「越後型居館」は共通する点も多く\r\n見出せることも指摘できる。三類型の立地は河川を望む「低位段丘面」と大きく括られ、\r\n近隣に「信仰対象の山」を有する点も共通し、大局的に見るならば、各類型の居館は同\r\n一系譜で、住人は共通する価値観を有していると理解できる。これは平泉勢力圏も含め\r\nた東日本に全域の共通性と評価される。\r\n その一方で、平泉勢力圏内部には「平泉」、「衣河」、「比爪」という「院政期都市型居\r\n館」が存在する。「院政期都市型居館」は、院政期京都の都市内部における居館をモデル\r\nとしており、直線道路で区画される都市内部に位置し、「居館」、「政庁」、「寺院」の複合\r\n施設である。その導入は二代基衡の時代の12世紀30~40年代頃と推測される。これら\r\nの「院政期都市型居館」導入後も平泉勢力圏内では、「初期柳之御所型居館」が存続し共\r\n存しており、「院政期都市型居館」は平泉勢力圏内でもその最上位の拠点にのみに限定さ\r\nれた可能性が高い。平泉勢力圏以外の東日本では同時期の「院政期都市型居館」は存在\r\nせず、12世紀80年代以降の鎌倉の大蔵幕府の出現を待たなければならない。\r\n\r\n第Ⅲ章 平泉勢力圏の内部構造\r\n 奥州藤原氏の勢力が浸透している平泉勢力圏の範囲は、出羽全域と福島盆地以北の陸\r\n奥である。陸奥でも、会津、安積、磐城等の陸奥南部は、奥州藤原氏の影響力が薄く、\r\n平泉勢力圏の外部と位置付けられる。そして、平泉勢力圏の内部構造は全域が均質な状\r\n況ではなく、地域様相により①「北緯40°以北の北奥区域」、②「北緯39°~40°の陸\r\n奥奥六郡、出羽山北三郡区域」、③「北緯39°以南の荘園分布区域」の三区域に分けら\r\nれる。\r\n ①の区域は建郡の時期が著しく遅れており、考古遺物から12世紀第1四半期頃の建郡\r\nと推測される。建郡にあたっては奥州藤原氏がその侵攻の主体になったと推測され、建\r\n郡後の地域支配の実質も奥州藤原氏が担っていたと考えられる。この区域は、国衙勢力\r\nなど他の勢力の影響はほとんど存在せず、奥州藤原氏の専横が通用する地域と位置付け\r\nられる。この様な言わば「私領」ともいえる広大な地域を有していたことが、奥州藤原\r\n氏の勢力維持の基盤になっていたと理解される。\r\n ②の区域は、奥州藤原氏の本拠地である。奥六郡の支配の拠点は、この区域の南端に\r\n位置する「平泉」と、中央に位置する「比爪」の二箇所があり、奥六郡は南北に区分し\r\nて管轄されていた可能性がある。出羽山北三郡では、拠点に相応しい遺跡が検出されて\r\nおらず様相は不明であるが、清原氏以来の重要地域であり、奥州藤原氏の直系に近い人\r\n物が配置されていたと想像される。\r\n ③の区域は摂関家等の中央権門の荘園が多数分布し、その現地管理に奥州藤原氏が携\r\nわっていたことが知られている。これらの荘園は奥州藤原氏が既存の在地権力である現\r\n地管理者の取り込みや、武力行使により管理権を奪取したものが多いと推測される。こ\r\nの管理権の獲得は、12世紀第1四半期の初代清衡の時代になされた事例が多いと考えら\r\nれる。この地域は元来、奥州藤原氏の勢力圏ではなく、奥州藤原氏が、従来の在地権力\r\nが存在した地域に進出したものであり、その地域の進出、保持、支配には高度の調整能\r\n力が必要とされたと理解される。\r\n そして、平泉勢力圏の中枢部には、「平泉」・「衣河」・「比爪」の3つの拠点が存在し、\r\nそれぞれが並立する複合的な権力構造であることが注目される。「衣河」は、元陸奥国司\r\nの藤原基成の「衣河館」が存在し、平泉勢力圏内で一定の求心力を有していたと考えら\r\nれ、平泉とは別個の権力装置を有する独立した「都市」と評価できる。「比爪」は平泉と\r\n比較して遜色のない規模と格式を有しており、平泉と並立する平泉勢力圏内の拠点と評\r\n価すべきである。そして、「比爪」は手づくねかわらけの調整形態の共通性から、比内、\r\n津軽方面の北奥地域との関係の深さも推測され、平泉勢力圏の北半部の実質支配は比爪\r\n勢力が担っていた可能性が指摘される。これは奥六郡のみではなく、平泉勢力圏全体が、\r\n平泉の一元的な支配ではなく、「比爪」が「平泉」と並立した権力基盤として存在したこ\r\nとが指摘される。勢力圏内部の権力分立を具体的に指摘したことは、奥州藤原氏の権力\r\n構造の本質を解明する上で重要な提示である。\r\n \r\n総論\r\n 平泉勢力圏の特色は、12世紀第2四半期の平泉二代基衡の時代における「手づくねか\r\nわらけ」の導入と、「院政期都市型居館」の導入の2点に示される。これは双方ともに、\r\n発信源は院政期京都にあり、10世紀以来存続していた、東日本における伝統的な王朝国\r\n家期の在地権力の支配形態を、根本的に転換させる行為と評価できる。そして、この平\r\n泉勢力圏における転換は、他の東日本諸地域の在地権力に先行しておこなわれた変化で\r\nあり、東日本の中では、時期的に突出して先行する動きである。これは広大で多様な様\r\n相の諸地域を有する平泉勢力圏の統治のために導入されたシステムの一つであり、奥州\r\n藤原氏の権力構造は広大な領域を支配するための機能を有していたと評価され、平泉勢\r\n力圏の支配形態は、鎌倉幕府に先行する「初期武家政権」と称するに相応しいものであ\r\nったと評価できる。","subitem_description_type":"Other"}]},"item_1_description_18":{"attribute_name":"フォーマット","attribute_value_mlt":[{"subitem_description":"application/pdf","subitem_description_type":"Other"}]},"item_1_description_7":{"attribute_name":"学位記番号","attribute_value_mlt":[{"subitem_description":"総研大甲第1400号","subitem_description_type":"Other"}]},"item_1_select_14":{"attribute_name":"所蔵","attribute_value_mlt":[{"subitem_select_item":"有"}]},"item_1_select_8":{"attribute_name":"研究科","attribute_value_mlt":[{"subitem_select_item":"文化科学研究科"}]},"item_1_select_9":{"attribute_name":"専攻","attribute_value_mlt":[{"subitem_select_item":"04 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