@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00002455, author = {大野, 順子 and オオノ , ジュンコ and ONO, Junko}, month = {2016-02-17, 2016-02-17}, note = {  いわゆる新古今時代に、六条藤家を中心とする旧風歌人らと定家ら御子左家系を中心とする新進の新風歌人らの歌風に対立的な構造があったことは、よく知られたところである。新風歌人が台頭する以前の詠風は何よりも先例を重んじるものであり、歌合の場でも先例の有無が和歌の善し悪しに積極的にかかわって勝敗を左右することがままあった。このような流れに対して、定家ら新風歌人は従来の常識にとらわれない和歌表現の可能性を追求したのである。この新風歌人らによって行われた本歌取りや新奇な歌語の続けがらの工夫などは、当然のことながら旧風をよしとする人々には受けいれられることはなく、定家が後年に『拾遺愚草員外』において「自文治建久以来、称新儀非拠達磨歌、為天下貴賎被悪、已欲被棄置」と回顧するような状況に陥った。この旧風と新風との対立は建久期を通じて続いていくのであるが、『正治初度百首』で詠進された定家の詠風に後鳥羽院が魅了されるや、新風の詠法が歌壇を席巻する方向へと急速に傾いていき、やがて新風歌人らによって一時代が形成されるに至るのである。このように旧風の歌人らにとって、新風の詠法は非常に抵抗感を強く感じるようなものであったとはいうものの、当然のことながら、定家を中心とした新風歌人のグループによって、それまでの和歌史とは関わりなく独自に創出されたとまでは言い得ない。既存の方法に馴染まず、いかに斬新な方法論に見えようとも、三十一字という和歌の大前提に変更がない限り、何らかの形で前代の影響を受けることは必然である。それまで続いてきた流れに新たな要素を付加することで独自な方向へと転換した先で、それまでにない斬新な方法論を確立するというような道筋を経てきたと考えるのが自然であろう。
   新古今時代に表現手法として確立した「本歌取り」などは、まさにそういった道筋を経たものである。古歌の一部を自らの歌に取り込むという例そのものはかなり古くから見られたのであるが、『新撰髄脳』において「古歌を本文にして詠めることあり。それは言ふべからず」と述べられているように、古くには古歌を取るという行為が否定的に捉えられており、表現の手法としては公式に認められるものではなかった。しかし、それも時代が下り、十一世紀後半あたりになってくると、「古き歌に詠み似せつれば悪きを、今の歌詠み益しつればあしからずと承る」(『俊頼髄脳』)あるいは「古き歌の心は詠むまじきことなれども、よく詠みつれば皆用ゐらる」(『奥義抄』)等と記述されるように、本歌を「詠み増す」という限定付きながら古歌を取るという方法がさまざまな歌学書のなかで認められるようになってくる。また、『中宮亮重家朝臣家歌合』(永万二年)の判詞において判者・俊成は「ふるき名歌もよく取りなしつれば、をかしきこととなん古き人申し侍りし」と述べており、十二世紀あたりには本歌取りが次第に肯定的に捉えられてゆく様がさまざまな面から看取されるようになるのである。しかしながら残念なことに、こうした否定から肯定への変位が如何なる事象によって起きたことであるのか、それを明確に示す文献を見いだすことはできない。
   ところで、本歌取りに対する意識の変化が起きはじめたと思われる十二世紀あたりから、和歌の周縁部ともいえる領域――本稿において取り上げようと考えているのは、今様と短連歌である。――において活発な動きが見られるようになってきていた。これは新風和歌の始発期と踵をつぐ時期のことであり、本歌取りへの意識の変化を考える上で、決して見過ごしにはできない。和歌よりは一段低く見られていたとはいいながら、広い意味で「歌」として括りこむことのできる今様や連歌が盛りあがりを見せていた状況は、何らかの形で第一文芸である和歌の詠風に影響を与えずにはおかなかったであろう。従来、貴族文化の粋とも言うべき和歌が、後発の遊戯である今様や短連歌に対して影響を及ぼしていることについては論じられてきたものの、その反対に和歌の周縁部から和歌本体への影響については、歌人や歌語の個別の特性としては論じられても、それらがその時代の和歌全体に影響を及ぼすというような可能性についてはほとんど考えられてこなかった。しかし、院政期以降の和歌を丹念に辿っていくと、周縁部から和歌へと揺り返してくる流れが見えてくる。また、この流れは遊びの文芸の気楽さから発せられたものであるからか和歌では許されないような要素を多分に含んでいるのであるが、それらは本歌取りがこの時期に否定から肯定へと言説を変化させたまさにその転換点に影響を与えた可能性を想像させる。
   そこで、第一章において院政期以降の和歌と今様の関係について論じ、王朝的なもの以外から歌語の拡張を図ろうとしていた時代に、今様の語彙が和歌に受けいれられて新古今時代まで生き残っていたことを確認した。こうして今様の影響が和歌に見られることを前提とした上で、今様の生命力の源とも言える「歌い換え」の方法までもが和歌に取り入れられており、それが言説を肯定に転じた初期の本歌取りが条件としていた「詠み増す」に接近するものであり、本歌取りの方法にも和歌の周縁領域が関わっていた可能性を提示した。
 続く第二章においては同様に和歌の周縁部にあった短連歌と和歌の関係について、短連歌を集め・詠むことに強い関心を抱いていた俊頼が短連歌を作るにあたって庶幾した方法を軸に据えて考察した。これまでの研究では、和歌における本歌取りのような先行作品摂取は短連歌には見られないといわれてきた。しかし改めて作品を見渡していくと、短連歌には先行作品を旺盛に取り込んでいる様子が見られた。なかでも、複数の先行作品の主題に関わらない部分を定型化して「型」として作品に取り入れるという連歌特有の先行歌摂取の方法は、やがて新古今的な本歌取りの手法と交差する方向へと発展していくものであった。
 最後に第三章では、前章までに考察してきた新古今時代以前の今様・短連歌に内在する方法が本歌取りの方法と影響を及ぼしうるものであったことを踏まえた上で、新古今前夜における新風歌人らの実作を分析していくと、新風歌人らの詠は、和歌周縁部の領域から影響を受けたような先行作品摂取の方法を排除することなく受け入れ、確立以前の本歌取りが多様な方法で試されていたことが確認された。このことより、当代的な流行歌謡のたぐいの影響が新古今時代へ向かう過渡期の歌にとりこまれることで、先行歌を摂取する方法の自由度が拡大し、さまざまな先行歌摂取の方法が試されるなかから、やがて新古今時代の詠風へと洗練されていったであろうことが本論で確認してきた一連の流れから推測された。
 このように本論は、これまでさほど言及されることがなかった和歌周縁部から和歌へともたらされる影響について捉え直しをし、その影響は単に本歌取りの言説のみならず、新古今前夜の新風歌人らの詠風そのものにかかわってくる可能性を提示した。
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