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    宮中に殿上を許された者を堂上といい、許されない者を地下という。歴史学研究においては「地下人・地上家」を、昇殿を許されていない官吏・官人とし、貴族の身分の一つとしているが、文学研究においては官吏・官人に限らず広く町人階層の歌人を地下歌人と称している。
    江戸前期堂上の和歌研究の進展とともに、地下歌人の和歌研究は、上野洋三氏『近世和歌撰集集成』 (明治書院、1985)、日下幸男氏『近世古今伝授史の研究地下編』(新典社、1998)などにより近年、研究が進行しつつある分野である。稿者は修士論文において『近世前期地下歌人の研究』として、元禄期に活躍した京都の地下歌人河瀬菅雄について研究した。
    江戸前期地下歌人たちの資料を見ると、彼らが毎月集まって月次歌会を行っている記録が散見する。宮中の歌会始で披露された和歌を巻頭に置き、同じ題で歌を詠み合うことも多い。前述の河瀬菅雄は実にまめやかに歌会を行っている。その資料は現在大阪大学含翠堂文庫に残っているが、彼ら地下歌人たちの視界には常に堂上の和歌があった。
    また、国学の先駆者ともいわれる下河辺長流の『林葉累塵集』においてさえ、その序文において「たかきいやしきをわかずあまねき勅撰あるべき時にこのしふのちりほひのこれるをもしもみそなはして読人しらずのあらん中に一首にてもえらびあげられば」と記している。勅撰集が撰ばれるときにこの集から(地下であるので)詠み人知らずの一首として撰ばれれば、と天皇の勅による国家事業である勅撰集を意識している。
    一方、江戸時代の天皇をはじめ、宮門跡・公家衆も年頭の歌会始から年末にいたるまで、歌会をまめやかに行っている。それは、天皇主催の御会、上皇主催の仙洞御会、七夕、重陽などである。後陽成天皇・後水尾天皇・霊元天皇など歴代天皇によってそのシステムが整えられていった。
    近年、研究が進みつつある堂上歌人の「加点資料」(和歌添削資料)であるが、これらが多く残るのは、ひとえにこの歌会のために研鑽をつんだ記録である。
    天皇・官門跡・公家衆はなぜ歌を詠んだのか。歌会があるからである。
    もちろんそれが全てではないが、晴れの場として歌会が重要であったことは間違いないであろう。『公宴続歌』(明治書院)で紹介された御会はほんのひとにぎりである。江戸時代の堂上和歌を知るためには、練習過程である和歌添削資料も重要だが、その成果としての御会研究が今、必要となっている。
    朝廷復興の大事業として御会は行われた。和歌が好きな天皇・宮門跡・公家にとっては活躍できる時代の到来である。しかし、歌会は参加しなければならない義務であったのも一つの側面である。天皇や皇族の中には後光明天皇・妙法院宮堯恕親王のように和歌より漢詩文を好んだものもいた。しかし、月次歌会はともかく、歌会始は宮廷の重要な行事の一つとして参加することになる。
〈本稿の意義と内容〉
〔第一章〕
    本稿に取り上げる良純入道親王(慶長八年〈一六〇三〉~寛文九年〈一六六九〉)は後陽成天皇の八宮であり、すなわち後水尾天皇の弟であり、徳川家康の猶子となり初代知恩院宮となった人物である。
    この良純入道親王は寛永二十年(一六四三)、突如、甲斐に配流される。帰京が許されたのは万治二年(一六五九)であった。
〔第二章第一節〕
    この寛永二十年という年は同時に、徳川家の血筋を引く女帝・明正天皇が退位、後光明天皇が即位した年でもある。後水尾院は宮中和歌の伝統を引き継ぐべく、早くから皇太子(後光明天皇)の教育を始め、和歌を着実に宮中行事として確立していこうとしていた時期である。
〔第二章第二節〕
    その一方、宮門跡や公家達は数多くの書を書いていた。配流の前も、配流の最中も、配流の後も、良純入道親王は多くの書を残すこととなる。白身は歌をあまり詠まないが、まるで職業のように色紙・短冊・扇面などへの揮毫を望まれる。また書家として『源氏物語』や『伊勢物語』の写本を行う。当時の宮門跡・公家衆はまるで家内制手工業のように写本を作っていく。ここに、当時の一般的な宮門跡・公家衆の活動を垣間見ることができよう。
〔第二章第三節〕
    良純入道親王は具体的にどのような書を残したのか。
    彼の書は配流地の甲斐に限らず、蒐集家の手によりさまざまに流通したようである。もっぱら、古歌短冊が中心である。また、甲斐においては、『和漢朗詠集』などが知られている。
    『伊勢物語』の写本も多い。『伊勢物語』と短冊コレクションで知られる鉄心斎文庫の芦沢新二氏は山梨県の出身であったこともあり、良純入道親王書『伊勢物語』を蒐集、所蔵しておられた。甲斐・山梨においては、良純入道親王は「八宮さん」として愛され、知られていた。では、なぜ写本は何冊も作られたのか。その背景には、前述の「宮門跡・公家」の短冊・色紙・写本の製造・流通システムがある。
〔第三章第一節〕
    良純入道親王は、和歌・漢詩文よりもほかの分野を好んだらしい。その立場は和歌に無関係ではいられないはずであるが、積極的に関わった痕跡は薄い。歌会の参加も非常に少ない。それにもかかわらず、「親王は歌を詠むもの」という庶民の思い込みは親王に関する和歌伝承を生み出していく。
〔第三章第二節〕
    良純入道親王は何を好んでいたのか。その事蹟は地下の記録に残ることとなる。寛文六年(一六六六)刊行『古今夷曲集』や『後撰夷曲集』など生白庵行風は、良純入道親王を地下の狂歌に対する理解者として顕彰していく。
〔第三章第三節〕
    芸能分野において筑紫箏曲の継承史にも良純入道親王の名が登場する。後に、筑紫箏曲の伝書では「投節」の作者にさえ擬せられることとなる。

    庶民の風俗を好み、配流される悲劇の入道親王。ここに浮かび上がるのは、和歌を中心とする堂上歌壇と、そこに属さず周縁、特に地下の文化と係わっていった親王の姿である。堂上と地下を結ぶものがここにあるといえるのではないだろうか。
    本稿は、この良純入道親王の事蹟をたどることによって江戸期における朝廷と地下との関係をみるものである。
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