@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00003095, author = {長門, 洋平 and ナガト, ヨウヘイ and NAGATO, Yohei}, month = {2016-02-17}, note = {  本論は、溝口健二の映画における音響の効用を、映像および物語(ナラティヴ)との関連から分析することを目的とする。従来の映画理論は視覚偏重の傾向が強く、映画の音響に関する研究は、映像ないし映画の物語に関する研究に比して著しい遅れをとった。この分野の研究は、欧米では主に1980年代以降の議論の蓄積があるが、日本においてはいまだその緒に就いたばかりというのが現状である。また、わが国における数少ない先行研究は押し並べて、映画音楽の「作曲家」に焦点を当てたものが中心であり、そのために映画の「音楽」に議論が特化される傾向にあった。本論は、「台詞」や「もの音」を含む音響テクスチャーとして映画なるものを把握する。   日本の映画監督に注目した音響研究の先例としては黒澤明に関する西村雄一郎の著作が挙げられるのみだが、西村の議論は伝記的事実を主軸に据えた実証主義の趣が強く、本論とは方法論的に相違する。本論は溝口映画の全作品を逐一採りあげて網羅的に論じるものではなく、また必ずしも溝口本人の伝記的事実を重視するものでもない。本論の眼目は、いくつかの特徴的な作品の分析を通して、日本映画史における溝口映画の特異性を聴覚的側面から記述することにある。同時に本論は日本文化論として、歌舞伎、新派、小唄映画からマルクシズム、民主主義、前衛芸術、果ては唐代の音楽まで、洋の東西を問わぬ雑多な要素のアマルガムとしての「日本モダン」の様相を、映画のなかに聴きとることを目的とする。   第1章ではまず、映画の音響に関する主に欧米の理論を整理し、音響を映像との関係において記述するための概念設定を行った。これは、第2章以下の作品分析の前提となる作業である。映画体験における映画館と観客の身体(耳)という空間の問題、映画テクスト内部における「物語世界」「物語世界外」といった音響的次元の区分、また音楽が映像・物語に対して有する効果の問題等を整理した。   第2章では、溝口が音楽と密接に関わる端緒となった作品、『東京行進曲』(1929)を検討した。当初はトーキーとして計画されていた同作の、小唄映画という形式に注目し、『ふるさと』の前段階的作品としての重要性を確認した。また同時に、『ふるさと』に至るまでの日本のトーキー映画史を概観した。   第3章では、日本で製作された現存する最古のトーキー劇映画『ふるさと』(1930)を考察対象とし、同作の日本映画史における位置づけを再検討した。また、ソヴィエトの映画理論が支配的なモードとなっていた同時期に大きく喧伝された「画面と音とのカットバック」という概念が、後年の「溝口的美学」のかなめとなるシークェンス・ショット(ロングテイク)に影響を与えている可能性を吟味した。その意味で同章は、溝口のもっとも「溝口的」な作品と称される『残菊物語』(第5章)分析に対する前提的な議論となっている。   第4章では、ジェンダー論の観点から『浪華悲歌』(1936)を分析した。ここでは電話という聴覚的ミディアムに注目することで、溝口映画における女性表象の「他者性」のあり方の一例を示した。この章で提起された女性表象の問題は、第7章の『赤線地帯』分析へと引き継がれることになる。また本章では、劇中伴奏音楽の不在に注目することで、一般的な劇映画における伴奏音楽の意味産出作用(物語の補強=「投錨」)について考察した。溝口のフィルモグラフィー上、『浪華悲歌』より開始されることになる「伴奏音楽の不使用」という試みは、物語における意味論的な多義性を保つために採用されるが、この趣向は次章で考察される『残菊物語』に結実することになる。   第5章の『残菊物語』(1939)分析では、第3章にて言及したロングテイクと極端なロングショットによる演出をまず検討した。同時にここでは、伴奏音楽の不在と相俟って助長される、物語上の意味のたゆたいが再度問題化された。本章では、徹底して『残菊物語』の音を聞くという立場から、同作のストーリーを構成しなおした。その結果として、この作品を「新派的メロドラマ」ではなく「怪談」として読み直す可能性を提示した。日本映画の底流をなす「新派的なるもの」に対する溝口のこの独特な批評的態度は、『浪華悲歌』『残菊物語』を経て、『赤線地帯』へと連なっていくことになる。   第6章では、歌舞伎の下座音楽が用いられた『近松物語』(1954)を中心的に扱った。本章ではいわゆる「伝統の発明」論の理論的枠組が大きく前景化された。同作は、一般に前提とされる「音楽」と「映像」という二元化自体が不可能な地平にある作品として分析された。同時に、「日本的映画音楽」の嚆矢と目される同作の音楽―ないし、「汎東洋主義」を標榜しつつ『近松物語』の音楽を書いた早坂文雄の音楽的実践―を批判的に読み直すことによって、音楽における「日本的なるもの」の概念を相対化した。1950年代の溝口映画におけるオリエンタリズム的側面を再検討するというこの作業は、『楊貴妃』(1955)の音響分析によって補強される。『楊貴妃』における唐代の音楽(雅楽)は、時代の設定・雰囲気醸成・異国趣味といった音楽的機能を超えた地点で、物語との有機的な関係を取り結んでいることを明らかにした。『近松物語』『楊貴妃』の音楽の重要性は、そのエキゾティシズムにではなく、映像・物語の情動ないし印象を補強=「投錨」するという一般的な映画音楽的機能とは別の美学が模索されたという点にある。その「別の美学」がもっとも極端な形態をとったのが、溝口の遺作『赤線地帯』であった。   第7章では、作品発表当時その映画音楽が論争を呼んだ『赤線地帯』(1956)を考察対象とした。本章では黛敏郎の十二音技法を分析するために、狭義の音楽学的なアプローチも採用しつつ、その音楽が映像の「異化」という特殊な効果を有する音楽であることを明らかにした。前章までの議論の主軸を形成した、溝口映画の音楽における「投錨効果の回避」という傾向が、この遺作においては異化という積極的なかたちで現れる。それは戦後における日本映画と現代音楽が取り結ぶ関係の一例を極端なかたちで表わし、後続する武満徹らの音楽的実験に一つの道を示したと言える。同時に、『浪華悲歌』『残菊物語』で模索された「新派的なるもの」、あるいは一般に溝口映画の主題と目される「淪落の女」という女性表象に対する、溝口の新境地―「喜劇」としての女性群像―を示すものでもあった。   本論の眼目は、映画の音響が映像・物語と取り結ぶ関係性に注目することで、溝口映画に新たな「読み」の可能性を与えることである。そして同時に、それらの「読み」を通して同時代の文化的・社会的趨勢と映画との連関を考察することでもあった。とりわけ、本論では同時代の女性表象、リアリズム、左翼イデオロギー、オリエンタリズム、戦後の前衛芸術といった様々な文化的・社会的側面と溝口映画との関連が考察された。また、本論第1章においては、映画の音響に関する主に欧米の言説を整理することで、同方面の研究における予備的な理論的枠組みを提示した。これらの議論は、本論の文脈から離れて映画の音響を分析する作業においても援用可能なものを含んでいると思われる。, 総研大甲第1469号}, title = {溝口健二映画にみる音響と映像の美学―物語構造の視聴覚的分析}, year = {} }