@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00003159, author = {土井, 正樹 and ドイ, マサキ and DOI, Masaki}, month = {2016-02-17}, note = {  現代のペルーを中心とする中央アンデス地域は、古代アンデス文明が展開した舞台であり、古くから工芸品製作技術の洗練や、複雑な社会組織の発達がみられた。本論で取り上げるワリは、この中央アンデス地域において、紀元後700年頃から1200年頃まで、ペルー中央高地のアヤクーチョ谷を中心として栄えたと考えられている初期国家である。ワリがどのような政体であったのかについては、様々な議論が行われているが、山岳部を中心とし、中央アンデス各地へと進出した広域国家もしくは帝国であると考える研究者が多い。ワリに関するこれまでの研究は、ワリが栄えた時期のみに注目する共時的な研究が多く、また、ワリの地方拠点と考えられる遺跡におけるワリの支配者に注目した地方支配に関する研究が多い。すなわち先行研究の特徴として、①共時的研究、②支配者に注目した研究、という点を挙げることができる。   このような先行研究に対し、本論は、ワリの形成過程を通時的にとらえる立場に立ち、さらに、支配者ではなく、支配を受ける側の人々の立場に立った研究であるといえる。ワリを含む初期国家の研究では、ピラミッド型に階層化された支配体系の存在を前提として研究が進められてきた。このピラミッド構造の上位に位置する政治的リーダーに注目する視点をトップダウン・アプローチと呼び、この支配を受ける側の視点に立った研究方法をボトムアップ・アプローチと呼ぶことにする。本論では、筆者が2001年以降にワリの中心地であるアヤクーチョ谷で行った踏査と発掘調査の資料に基づき、ワリ形成前(ワルパ期)、ワリ繁栄期(ワリ期)、ワリ崩壊後(チャンカ期)という3つの時期にわたり、初期国家の形成下において小規模な集落でどのような変化が生じているのかを論じた。   本論は全部で9章より構成される。第1章では、これまでの初期国家の形成過程に関する先行研究を振り返り、本論の特徴であるボトムアップ・アプローチの必要性を明らかにした。続く第2章では、ワリに関する先行研究を振り返ることにより、上述したような先行研究の問題点を明らかにし、ボトムアップ・アプローチによるワリの形成過程の解明が必要であることを確認した。   第3章では、筆者がアヤクーチョ谷で行った踏査に基づく資料を検討することにより、ワリの成立に伴いアヤクーチョ谷内の遺跡の立地にどのような変化が生じているのかを明らかにした。その結果、ワリ繁栄期には、異なる機能を有する遺跡が有機的に結びつくような、以前にはみられない遺跡間関係が存在するようになったことを明らかにした。このような新たな遺跡間関係の出現は、ワリ期に初期国家が成立したことを支持するものであった。   第4章以降は、アヤクーチョ谷のトリゴパンパ村周辺に位置する、ワンカ・ハサ、タンタ・オルホ、クルス・パタという3つの遺跡での発掘調査による資料に基づく議論を行った。まず第4章では、発掘調査によって明らかになった遺構の特徴を説明し、同時に遺構の切り合いおよび重層関係に基づき各遺跡においていくつの建築フェイズが存在するのかを明らかにした。   第5章では、第4章で明らかにした建築フェイズを、出土した土器に基づき先行研究の土器編年と関連づけることにより、各建築フェイズがどの時期に属するものかを明らかにした。その結果、ワンカ・ハサ遺跡はワルパ期とワリ期、タンタ・オルホ遺跡は、ワルパ期とチャンカ期、クルス・パタ遺跡はワリ期に利用されていたことが明らかになった。   第6章では、土器の様式以外の属性に関する分析を行った。混和材の分析により、土器の生産体制がどのように変化しているのかを推測した。その結果、ワルパ期、ワリ期、チャンカ期と時期が新しくなるにつれて、土器製作が簡素化してゆく傾向をつかむことができた。また、器形の分析に基づき、土器を用いる活動が時期によってどのように変化しているのかを明らかにした。とくに、集落内のリーダーの地位を高めたり、維持したりする効果をもたらす饗宴の開催に注目し、ワリ成立前のワルパ期には、ワンカ・ハサ遺跡で盛大な饗宴が行われていたと考えられるが、ワリ成立後には、そのような饗宴が開催されなくなり、これは国家による祭祀の独占ととらえられることを指摘した。   第7章では、土器以外の遺物の分析を行い、小集落での経済活動と祭祀活動における国家支配の影響について検討した。農耕、土器、そして織物の生産に関わる遺跡の分析では、国家成立に伴い、これらの生産の強化が生じているという予想に反し、農耕が強化された可能性があるものの、そのほかの活動については、あまり変化が生じていなかったと考えられた。ただし、この分析結果は、小集落の経済が、ワリの国家とは無関係であったことを意味していない。遠く離れた土地に由来する海産物が、筆者が調査した小集落遺跡からも出土していることから、小集落の住民も、ワリの交易ネットワークを通じて、それらの品を入手したと考えられる。また、土偶の分析により、ワルパ期後期からワリ期にかけて、おそらく世帯を単位として行われていたような儀礼の内容が変化していることが明らかになり、このイデオロギーと関わる変化が、国家の成立により生じている可能性が浮かび上がった。   第8章では、遺構の比較と分析を行った。ワンカ・ハサ遺跡、タンタ・オルホ遺跡、そしてアヤクーチョ谷の南部に位置するニャウィンプキオ遺跡の建築形態の比較により、国家形成に先立ち、アヤクーチョ盆地内の各地で萌芽的なリーダーが出現しており、そのようなリーダー間の交流によって新たな建築形態が創出された可能性が明らかになった。また、墓の構造の分析からは、ワリ期の社会階層と対応するものと考えられていた墓の構造の違いが、ある程度ワルパ期の墓においても認められることから、社会階層以外の要因によって生じている可能性を指摘した。最後に、祭祀建築と考えられるD字形建築の分析からは、小集落遺跡のD字形建築が国家の成立とともに利用されなくなり、一方で、ワリの拡大と関連する各地方の遺跡にD字形建築が存在することから、D字形建築を利用した祭祀が国家による統制を受けるようになった可能性が明らかとなった。   第9章では結論として、これまでの議論のまとめを行った。上記の分析の結果、これまで軍事的征服や経済支配というイメージで語られることの多かったワリが、その中心地の小集落に対しては、軍事や経済よりもむしろ儀礼や土器の図像と関わるイデオロギーの側面において、国家による統制を行っていた可能性が明らかとなった。このように本論を通じて、このようにこれまでのワリ国家像に見直しを迫る資料が提示できたが、より重要なことは、これまで無力で、政治的リーダーに対し従順にしたがっていたと考えられてきた小集落の住民の主体性が垣間見えたことである。たとえば、国家の交易ネットワークを通じて小集落の一般の人々が遠距離交易品を入手していたことは、小集落の住民が国家を利用していたととらえることも可能である。また、小集落における地域的な祭祀の場であったと考えられるD字形建築が国家の祭祀施設となってゆく過程は、ワリのリーダーたちが、祭祀を通じて権力を獲得し、それを維持する上で、新たな祭祀を生み出すのではなく、すでに一般の人々によって受け入れられていたものを採用した、すなわち一般の人々の意向に配慮しながら権力形成を行っていたことを示唆している。これを一般の人々の「力」と考えることができよう。, application/pdf, 総研大乙第214号}, title = {小集落から見た初期国家の形成過程―先スペイン期中央アンデスのワリ国家を事例として―}, year = {} }