@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00000034, author = {大家, かおり and オオイエ, カオリ and OIE, Kaori}, month = {2016-02-17}, note = {1991年に世界初の社会主義国であったソ連が崩壊して、はや15年を迎えようとしてい る。この十余年のうちに、それまで調査のために外国人研究者が入国することが不可能で あった旧ソ連圏の研究は、原典入手が容易になったという意味で飛躍的に進歩した。本論 文の目的は、ソ連崩壊前までは未開拓分野であった社会主義体制下にあった人々の文化の 一事例を分析し、それを規定、規制しようとしたソ連の文化政策とのかかわりを明らかに することである。その具体例として、ソ連の文化政策の影響を受けたロシアのバラライカ という楽器とその文化を取り上げる。この楽器は19世紀末に V.V.アンドレーエフ (1861-1918)の手によって構造が近代化され、都市住民の娯楽楽器として流行した後、 1917年の革命後ソ連の文化政策に組み込まれて紆余曲折を経て、1948年に音楽学校にお ける教育体系が完成し、現在に至っている。このうち、現在の教育制度が立っている地盤 であり、因果関係を知るには理解必須であるはずの1948年に至るまでの30年については 研究が少ない。しかも、ロシアでは関連機関の間で認識の方法が三鼎立しており、あたかも 3つの異なる楽器であるかのように語られている。  本論文の研究対象は、1917年から1948年までのバラライカの文化、すなわち物質文化 としての楽器の様相とその鳴り響く空間とする。具体的には、楽器構造、音楽テクスト、 演奏される社会的文脈と当該社会におけるその機能である。ソ連政府の文化政策はそれら の対象に何らかの形で関わり、反映されている。方法論としては、バラライカという物自 体を基盤として、定まった時間の中でその3つの分野を同じ平面上に置き、比較し、その 関連性を考察するという方法が抽出できる。  本論文が持つ学術的な意義は次の通りである。 第1に、選定した1917~48年は、楽器の近代化が行われた19世紀末と現在を結ぶ過渡 期である。この時代のバラライカの様相を理解するために、音楽テクストの追究だけでな く、より広い.視野に立ち、文化的、社会的文脈、特に文化政策との関係を描き出すことが できる。これはバラライカの歴史に関する研究における意義に当たる。  第2に、現地で存在する三分化による理解の状況は出版物に反映されており、出版物に 書かれたことをそのまま取り入れてまとめたのでは、わかりにくい。しかも当該の時代に はこのような厳密な三分化ができる条件はそろっておらず、曖昧な面があった。したがっ て、その曖昧さも含めて総合的に記述した。これにより、ロシア文化学が目指す、既存の 枠組みにとらわれないダイナミックな文化の有様を取り出すことができる。これはロシア 文化研究上の意義に当たる。  第3に、当該の時代の原典の数量は絶対的に少ない。そのため、聞き取りによって口頭 資料を収集し、厳密に年代規定した歴史資料として用いた。これにより、従来の文献学的 研究に、文化人類学のフィールドワークの方法を用いた資料を補足することができる。つ まり、歴史研究の方法と文化人類学的な方法との融合ということで、新しい分析方法を開 拓するという意義を有している。 各章では、第1章で先行研究を、第2~5章で鳴り響く音を、第6~7章で音が鳴り響く 空間を研究対象とした。  第1章では、ロシア人研究者の先行研究が各時代の動向と共に概観された。そこでは、 考古学的な検証作業が行なわれるとともに、音楽テクストが集められ、演奏文化の構造が 定められたが、演奏される文脈(社会的、文化的、地域的、芸術的)ということに関して はデータ収集の方法論が確立されていなかった。  第2章では、楽器について論じた。楽器の生産と流通に関して、文化政策は驚くべき威 力を発揮した。19世紀末になされた楽器の近代化の経験は、五カ年計画で建設されたルナ チャールスキイ工場で大量生産の図面となって活かされ、工場制バラライカは普及をみた。 職人が製作する上質の楽器は、当該の時代には多くなかった。工場制楽器が普及しなかっ た場所では、従来通り自作楽器が作られた。  第3章では、演奏の形式と調弦法と奏法について論じた。それI享、歌と漁りを伴いバラ ライカがその伴奏楽器として機能する農村型と、器楽として独立し、旋律楽器として機能 する都市型に区別された。政策は、農村型から都市型への移行を目標とし、それが徹底さ れたところでは農村型から都市型へ移行したが、当該の時代には多くはなかった。  第4章では、演奏者と教育について論じた。農村では、奏者は主に少年たちであったが、 戦時中に兵役に服した関係で少女たちが奏者となっていった。都市では新しい娯楽の機会 としてのアマチュア芸能活動の普及により、子供から老人までが音楽クラブやサークルに 参加できたため、年齢に関係なく奏者がおり、性別も男性多数から女性奏者の出現を見た。 職業音楽家は男性奏者のみだった。楽器の習得過程は、農村型文化では互いに教えあうも のだったが、都市型文化では教える者と教えられる者という役割分担が明確になり、民族 音楽が「学校で習うもの」になった。そして文化政策による教育制度の導入は、根本的に 農村型から都市型への移行を促進した。  第5章では、レパートリーについて論じた。伝統的なバラライカの音楽とは、限られた 和声進行のナーイグルィシであり、それは歌と蹄りを伴う農民の伝統的な演奏形態におい て存在しえた。そこではバラライカは伴奏楽器として機能していた。文化政策として講じられたアマチュア音楽活動においては、バラライカの旋律楽器としての機能が要求された。 レパートリーには、舞蹄曲、声楽曲、民謡の編曲、芸術音楽の作品の編曲が入り、いずれ も小品で、親しみやすい旋律ばかりだった。音楽の専門教育を受けた奏者たちは、それを さらに追究し、ヴァイオリンの超絶技巧的な作品やピアノ曲・管弦楽曲の編曲の演奏に向 かっていった。  第6章では、演奏の場について論じた。それは、聴衆という基準によって、聴衆が参加 者全員である農村のグリャーニエ、基本的に聴衆がおらず自分たちだけのために演奏する 都市のアマチュア芸能活動、聴衆に向かって演奏をする職業音楽家のコンサート文化の3 つに分けることができた。文化政策はアマチュア音楽活動を推進し、農村型の伝統的な農 民の演奏の場をソヴィエト的行事に置き換え、消滅させようとした。  第7章では、演奏者の地位と美的基準、演奏の意味について論じた。農村ではグリャー ニエにおける知名度・尊敬度が、アマチュア芸能活動では行政が企画する音楽的行事にお いて人前で演奏したという事実が、職業音楽家ではコンサート活動において国が与える称 によって評価されることとなった。当該の時代は概して、奏者たちにとってバラライカ 愛着あるものであり、その演奏は心の娯楽だった。 このように、バラライカの音とその鳴り響く空間を追究することによって、国の文化政 策=実態というように直線的に捉えられがちな社会主義の文化において、政策が成功した 面、失敗した面にとどまらず、政府に予想できなかった面や政策の受け事である音楽の従 事者が独自の工夫をこらした面など、他の楽器や分野と比べるとはるかに多彩な局面が見 られることを明らかにすることができた。, 総研大甲第916号}, title = {バラライカの鳴り響く空間:1917~48年における社会主義の文化の生成}, year = {} }