@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00003568, author = {荻野, 夏木 and オギノ, ナツキ and OGINO, Natsuki}, month = {2016-02-17}, note = {本論は、病気という現象を通じて、それをもたらすとされる目に見えない存在に対して人々が抱く不安や恐怖といった感情と、それが行動や習俗にどのように表現されているかについて研究したものである。具体的な分析の対象として疱瘡、麻疹、コレラという三つの疫病をとりあげ、それぞれの病気観、予防や治療に関するまじないの習俗、流行時の世相などについて考察した。この三つの病は原因として疫病神の存在が想定され、それらへ対処することで罹患予防と回復が図られたため、人々の想像力の表われ方を最もよく見ることができるからである。序章では、こうした問題意識に基づいて先行研究を整理し、研究の視角について述べた。個々の病気の習俗に関する研究には蓄積があるが、病気ごとの比較を通してそれぞれの特徴や差異について検討したものは少ない。本論ではこの点を念頭において考察を進めた。  第一章では、近世において疫病神が言説や絵画の中でどのように表象されているかを考察した上で、それぞれの疫病のイメージを明らかにした。疱瘡や麻疹の疫病神は、絵画や説話・風説の中で人の姿で表象されることが多いのに対し、コレラ流行の場合は「コレラ獣」や狐狸を原因とする風説が多く見られた。ただし、人の姿で表わされる疱瘡と麻疹の疫病神にも、その描かれ方には差異がある。錦絵や風説において、麻疹の疫病神のほとんどはみすぼらしく汚いなど、負のイメージを帯びている。他方では、疱瘡神も源為朝のような豪傑に退治される様子が少なからず見られるが、疱瘡を軽くする呪具を携えた姿で描かれることもあるなど、必ずしも負の側面のみが表象されているわけではなかった。つまり、疱瘡神は場面やモチーフによって、病気からの守護(予防、回復)という恩恵をもたらす福神と、疫病流行や重篤化による死をもたらす悪神のイメージが使い分けられている。このことは、疱瘡神が疫病を司る疫病神だからこそ罹患後の症状を重くも軽くもできるという両面性を物語っている。  第二章では、第一章での結論を踏まえた上で、疫病除けの習俗とその背後にある疫病に対する心性について検討した。病気の予防のために、門口や軒先に呪符を貼るなどのまじないは各地で見られる。疱瘡ではとくに源為朝ら疱瘡を撃退するとされる豪傑の名前を書いた呪符が広範に使われ、疱瘡神が来訪しないことを約束した証文も存在した。これらの習俗は疫病神が家へ侵入するのを防ぐことを目的としているが、その一方で、疱瘡神をもてなす習俗も行なわれていた。疱瘡は避けがたい脅威だったために、人々ははじめから罹患を逃れようとするだけでなく、軽度の罹患や速やかな回復などの恩恵を得るために、疱瘡神を喜ばせて福神的な面を引き出すための習俗をも行なってきた。これに対し、麻疹やコレラに関する習俗は罹患を避け、即座に追い払おうとするものがほとんどであった。麻疹は流行周期が長いために免疫が出来にくく、一度流行すれば幅広い年齢層が罹患した。また、コレラは近世末に日本へ流入した疫病で、当時は有効な対処法が存在しなかった。このように、麻疹・コレラは疱瘡に比べて一度の流行で発生する患者数が多い上に、致死率も高く、その流行はより甚大な被害をもたらした。そのため、疱瘡のように疫病神を歓待してから送り出すような習俗は、ほとんど生まれなかったと考えられる。 このように、疫病除けの習俗の根底には「疫病神を遠ざけることで疫病から逃れようとする」という共通する観念が見られるが、それぞれの疫病観や習俗には差異が見られた。そうした差異には、個々の病気に対する経験や知識の差、流行時の被害や世相の違いが少なからず反映されていた。疫病神観念やまじないなどの習俗は想像力から生まれたものであるが、人々の長年の経験や知識、それぞれの疫病に向ける心性に根ざしていた。 なお、疱瘡と麻疹については、近世期に行なわれていた習俗より、むしろ近現代に行なわれていた習俗に、類似点が多く見出せる。このことは、近代における医療の発達により、疫病の経験から遠ざかっていくにしたがって、疱瘡と麻疹の習俗が混同されていった可能性が考えられる。  第三章では、史資料に即して、近世期における疫病除けの習俗の担い手や実態、疫病流行時の世相を明らかにした。近世末期から明治初期にかけて記された『指田日記』からは、江戸近郊の集落で、疫病除けの習俗に陰陽師や修験者らの宗教者が深く関わっていた実態が読みとれる。彼らは疱瘡棚や酒湯(ささゆ)などの疱瘡習俗に広く関与し、疫病が発生した際の疫病神送りでも中心的な役割を果たしていた一方、近世末のコレラ流行時に流布した狐狸や獣を病因とする言説を冷静に批判する面もあった。また、近世末期の疫病流行時には、疫病が発生・拡大した原因と当時の国内外の社会の動きを結びつけた風説がしばしば見受けられるなど、そのときどきの社会情勢も、人々の疫病に対する想像力に影響をおよぼしていた。 第四章では、明治になって病気除けの習俗に対する規制や批判がどのような方針・手法で行なわれたか、それによってどのような衝突が生まれたかを論究した。明治初年代、疫病を含めた病気除けのまじないは人々にとって身近なものだった。しかし、新たな知識や制度を取り入れる姿勢、すなわち「開化」を掲げた国や地方行政はそれらの習俗を「旧弊」として撲滅しようとし、布達や神官・僧侶らを通じて取り締まった。同時に、民間でも「開化」的な意識を広めていこうとする啓蒙的な活動が盛んに展開された。だがこれらの「旧弊」撲滅運動は初年代後半をピークとし、その後は下火になっていった。しかし、明治12年にコレラが流行した際、疫病神送り、集団祈願、疫病除けの呪符などのまじないによってコレラを退散させようとする庶民と、その動きを取り締まろうとする行政側との間にふたたび激しい衝突が起こった。疫病神送りや集団祈願は、若者が率先して行なったり、なかには地方行政の末端が加担しているケースすら見られた。このような呪術的な行為はあらためて厳しく取り締まられ、やがて表立った衝突は減少していった。こうした時代の中で、疫病除けの習俗の一部は人々の生活の中に生き続けていった。 終章では各章で考察した点を整理した上で、今後の課題と展望について述べた。本論では近世末期から近代初期における疫病流行という歴史的な事象から当時の人々の行動、心性を分析する一方、疫病除けの習俗・祭礼についても検討し、その根底にある疫病観を考察することで、疫病をめぐる人々の心性と行動を複数の視点からとらえた。近代医療が浸透するにつれ、疫病除けのまじないが実際の疫病流行に際して行なわれることは少なくなった。しかし、現代の祭礼や行事のなかにも疫病除けの習俗につらなるような、病気をもたらす存在を生活圏の外へ追い出そうとする観念を見ることができる。それは、病気に対する不安や恐れの感情が今なお私たちの心に深く根ざしていることを物語っている。今後は疫病以外の病気へも対象を広げ、人々の病気に対する関わり方をさらに検討していきたい。, 総研大甲第1536号}, title = {病気をめぐる心性と行動-疱瘡・麻疹・コレラを中心に-}, year = {} }