@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00004047, author = {柏木 , 善治 and カシワギ , ゼンジ and KASHIWAGI , Zenji}, month = {2016-02-26}, note = {横穴墓や古墳から検出される人骨は、調査数増加に伴い事例が増えている。そのなかに明らかに改葬されたとみられる埋葬例がある。改葬はどのような背景や死生観のもとに行われ、横穴墓や古墳はどのように使用されていたのか。これらについて考察した。 後・終末期の墓制として、終末期前半における三ノ宮古墳群の様相をみた。そこでは、古墳と横穴墓が同時期の墳墓として混在することなど、古墳群としてのあり方が多様化している。そして埋葬方法は、古墳と横穴墓で相違があり、それが埋葬施設の構造に顕現したと捉え、主に後者では新しい葬法となる改葬が採用されたとした。 終末期後半では、特別な墳丘形態として、首長層に八角墳や上円下方墳が採用され、埋葬施設は地域独自の階層性に基づき築造される。それらの古墳には、段築成や墳丘高から受ける偉容さなど、見せる墳墓としての機能が求められていた。墓前域は開放され、そこには儀礼空間としての機能が窺え、墳墓は儀礼執行にかかる舞台装置であった。この機能は、首長層に限らずそれ以下の階層が築造した古墳にもみられる。 相模・南武蔵地域における横穴墓の特徴や編年観を整理し、撥形横穴墓に焦点をあてた。それには二つのパターンがあり、各地で撥形横穴墓だけで群が形成されるものは、相模・南武蔵地域の影響を受けて成立するという新進型、群内で有袖式から無袖式へと変容するものは、各地での複合型とした。撥形の形態は、羨道の機能喪失から生じたもので、その成立の背景は、被葬者層の拡大という埋葬人数増加への対応策とみた。 横穴墓には階層性がみられ、優品の副葬された横穴墓の比率が、6世紀後半以降徐々に上がり、7世紀中葉には地域の盟主が築造した古墳よりも卓越したものが存在する。古墳・横穴墓は地位や役割からの必然として築造され、それらを顕示するため、定期的に墓前域で儀礼が行われた。さらに、首長や地域の盟主における継承等の儀礼では、装飾大刀などの威信財が活用される。そのような横穴墓のなかには、首長層が築造したものがある。首長墳を凌駕するような副葬品を出土する横穴墓が太平洋沿岸に点在し、これらを築造した首長は、中核的な中継地域の管掌者とみなした。 後・終末期古墳の喪葬観念を導くため、墳墓にみる埋葬方法にふれた。それには伸展葬と改葬があり、さらに改葬は集積改葬と擬伸展改葬に分けられ、古墳と横穴墓共に伸展葬と改葬がみられる。横穴墓への埋葬は、初現期の相模湾沿岸部で玄門側頭位の主軸平行型の伸展葬が多く、展開期及び盛行期には伸展葬と改葬の両者がみられ、撥形横穴墓の盛行と併せて伸展葬は主軸直交型となる。また、棺内複数埋葬が伸展葬で順次積み重ねるように埋葬されたことから、遺体への接触頻度という視点で、伸展葬では執着観念が薄く、改葬では厚いとした。改葬は、被葬者層の拡大から普遍的に行なわれるようになり、一次葬となる骨化空間と作業空間確保のために、7世紀前半の玄室面積は広くなる。 これらの様相を受けて、九州地方北部・山陰地方・北陸地方・東海地方・東北地方南部について、横穴墓の埋葬事例を抽出した。改葬は各地の横穴墓で普遍的に行われ、5世紀後半から部分改葬が始まり、終末期には集積改葬が多く行われたことが判明した。 線刻画をみると、矢のつがえられた弓などの画を埋葬施設に描き、邪の侵入から魂が不浄なモノへの変化を避けていたことが窺える。線刻画には辟邪以外に黄泉国への道程も記されたが、このような描画は他地域でみられない相模・南武蔵地域特有の文化とした。 儀礼に用いられた土器について、種類と組成から玄室と墓前域に分けて3段階に類型化した。6世紀後半以降、玄室で小型の供膳具が出土するものから、7世紀中葉以降、供膳具と共に大型製品である甕が墓前域で使用される様相に変化する。そのなかで、須恵器甕などを打撃により破砕する例は儀礼終了の表現とした。6世紀後半以降、首長墓で行われた見せる儀礼は、儀礼の終了をアピールする破砕行為と共に、7世紀中葉にはそれ以下の階層にも採用される。それに合わせて破砕行為も盛行し、同一器種が古墳と横穴墓で共に使用され、両者の儀礼が共通していたとみなされる。その後、7世紀末には墓前域からの出土が少なくなり、見せる儀礼は行われなくなる。土器は6世紀後半以降、陶邑製品の使用が続くが、7世紀中葉以降フラスコ形長頸瓶の使用へと特化していき、湖西製品の消費量が増加する。それは、東海から東北という広い地域で儀礼に使用される器材であり、流通網整備から同一儀礼の広域展開が行われたとした。横穴墓で墓前域に石積がされるものは、古墳と同じような視覚的類似性があり、両者の共通性が見出される。古墳と横穴墓で、喪葬儀礼と埋葬方法の共通化が図られたのである。 死の認識過程として三つの段階を設定した。第一段階は「機能停止」。これは息を引き取った段階で、肉体としての機能が停止する過渡期を意味する。第二段階は「死の認識」。これは肉体の腐敗が始まる段階で、肉体の変化期とする。第三段階は「肉体消滅」。肉体の腐敗進行から骨化が終了した段階で、肉体変化の完了期とする。第二段階から第三段階に至る過程を清浄/不浄の変化期と捉え、清浄は「畏怖対象としての魂」という存在、不浄は「忌避対象としての魂」と、一つには崇拝対象であり、一つには忌避対象であるという二種に分けた。魂は骨化までの間に肉体から分離し、昇華および零落して清浄/不浄の変化を遂げる。改葬は不浄な変化を避けることを目的とし、肉体を滅して魂を浄化し、不浄な変化を防ぐこととみなした。 埋葬からみた古墳時代後・終末期の死生観にかかる現象と観念は、一つには死の確認行為による肉体の消滅に合わせた魂の変化と、清浄な変化を遂げた魂の継承による同一集団としての一体感を表出した喪葬儀礼執行であり、いま一つは、魂の辿り着く最終地である意識としての冥界観念の萌芽である。 横穴墓には改葬が多用され、そこからは密閉的死生観と開放的死生観が読み取れるが、横穴墓は後者に基づいた埋葬施設である。開放的な死生観では、腐朽した肉体の観察から死が確認でき、肉体の消滅を骨化後の改葬で表現した。『記紀』にみる伝承の一つに黄泉国訪問譚があるが、これは開放的な棺の死生観から生じた記述とみた。 死後に肉体消滅へ進行すると、魂は清浄/不浄の変化を同時に遂げ、清浄な変化の後に昇華した魂は畏怖されるべき対象として意識されていた。, 総研大甲第1573号}, title = {埋葬技法からみた古代死生観-6~8世紀の相模・南武蔵地域を中心として-}, year = {} }