@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00004102, author = {野呂田, 純一 and ノロタ, ジュンイチ and NOROTA, Junichi}, month = {2016-02-26}, note = {本論文は幕末から明治中期までの約30 年間を大別して、幕末から明治10 年頃までの時 期(第1段階)、次の大日本帝国憲法が発布され、帝国議会が開設される1890 年頃までの 時期(第2段階)、そして、それ以後明治30 年頃までの時期(第3段階)に分けて分析を 行っている。「美術」はその領域が独立したものとして社会的な認知を得られるようになる 以前の、第1・第2段階においては、政府の勧業政策や「帝室」の尊厳の維持に資する政 策に従っており、第3段階に至って、ようやく独立した領域を確保するためのプロセスに 入っている。 本論文は緊迫した外交・政治・経済状況を背景とするそうした各段階において、万博参 加等を通じて、西洋の「美術」に関わることば・概念、応用美術博物館等の美術に関わる 諸制度、美術思想や美意識が国内に流入するにあたり、政府が前代の日本社会に存在し、 維新により廃絶や破壊・流出に追い込まれた〈美術的なるもの〉を、どのように再利用、 再編成していったのかを明らかにすることを目的としている。 近年の美術史研究のパラダイムでは「国家」を鍵概念として、「日本美術史」など、これ まで美術関係者が自明としてきたものに対して、その起源に遡って分析のメスが入り、「国 家」による創作性、国民への「教化」などの「政治性」が存在していたことが明らかにさ れてきた。しかし、そこでは「国家」が強調されすぎる反面、美術政策を建議・実行した 個々の官僚の思想性等が分析されておらず、その結果として、彼らが設立した美術諸制度 等へそれらがどのように影響したのかについて、大きく見落とされてきた。本論文はその 見落とされた「個人性」から美術政策の形成過程とその結果を描き出していくものである。 第1章では、幕府外交文書の原資料『仏国博覧会御用留』の中から、幕府開成所教授村 上英俊と翻訳御用塩田三郎の記名を発見し、両者の和訳の比較を行った。その結果、通説 とは異なり、ウィーン万博より、数年早い慶応年間には村上がほぼ正確な意味で西洋「美 術」概念を把握していたことを明らかにした。 第2章では、ウィーン万博関係の原資料間の照合から、ウィーン万博出品区分における 複数の訳文の存在とそれら相互の関係性、そして、「美術」という概念の出自は通説とは異 なり、出品区分第24 区にある独語“Kunst”の 和訳にあることを明らかにした。 第3章では、同じく原資料間の照合から、現在では「よき趣味」と和訳される独語“guter Geschmack”が、当時、政府において「風雅」と和訳されたこと、日本出品の中では唯一、 「姫路革」がその「よき趣味」を称える賞を受賞していたことをその意味とともに明らか にした上で、西洋の「よき趣味」と江戸期から継承した「風雅」という美意識には「簡素 さ」「気品」といった共通項があったことを提示した。 第4章では、明治初期の博物館における古器物保護・収集政策の一体性や、江戸期の「宝 物観」を博物館収蔵基準として継承していたことを明らかにした。また、「華族宝物調査」 「壬申検査」で作成された「宝物」リストを分析し、歴史上名誉ある人物との「由緒」を 持つ物品等が、「家宝」「寺宝」「神宝」として継承されていることも明らかにした。 第5章では、元幕府開成所頭取並目賀田帯刀が慶応年間に構想した「百工館」の内容を 明らかにしたが、これは日本最古の、「博物館」という名称を使用した「商品陳列所」構想 の発見となる。また、工部省・正院博覧会事務局の「勧工」政策の変遷は、江戸期以来の 多くの「(手)工業」の中から、輸出の見込みのある製品に特化される過程でもあり、正院 博覧会事務局塩田眞がフィラデルフィア万博への出品に際して、漆器や陶磁器、銅器の「装 飾」費用の優先的な貸付を有力貿易商や「名のある工人」に対して行っていたことを明ら かにした。 第6章では、内務省の「美術」政策の特質を分析した。同省の勧業政策の中心人物であ る勧商局長河瀬秀治による「美術験マ究マ場」構想を発見し、その構想内容と第一回内国勧業 博覧会の〈美術館〉の展示内容から、内務省ではフィラデルフィア万博における、「応用美 術」をも含む「美術」区分を受容しており、前代の刀装技術等を再利用した、「装飾」性の 強い陶磁器・銅器などの国内生産を強力に推進するものであったことを明らかにした。 第7章では、「帝室技芸員」の制度化構想を含む「学芸寮の建議」が大蔵省(太政官)大 書記官矢野文雄から参議大隈重信に提出されたことを明らかにしたが、それと大隈建議「三 議一件」や矢野の師福沢諭吉『帝室論』との比較から、同構想は福沢から矢野へ、矢野か ら大隈へ伝達されたことも確認できた。また、1879 年頃から佐野常民は江戸期から継承し た文人画の「写意性」と尊王(忠孝)思想をかみ合わせた美術思想を持つようになり、自 身が会頭である龍池会において、「帝室」と「美術」の結びつけに強い影響を与えたことを 明らかにした。 第8章では、第一回観古美術会(1880 年)という展覧会は、「考古」を趣味とする江戸 期以来の私的な人脈やその鑑識眼を成立基盤としていたこと、そして、中国(明・清)に 由来する文人意識や文人的美意識を持つ人々を周りに配した、農商務省博覧会掛兼博物局 芸術課長山高信離が同時代の美術政策の最高責任者であったことを明らかにした。また、 佐野と行動を共にする山高は内国絵画共進会において「帝室」の尊厳を維持する美術政策 を実行していたことを明らかにした。 第9章では、宮中顧問官佐野常民が反伊藤(博文)色の強い宮内省幹部との連携の中で 帝室技芸員制度を成立させ、その後の人選も事実上、日本美術協会が行っていたことを東 京国立博物館所蔵資料から明らかにした。その一方で同省においては九鬼隆一が自身が長 期間をかけた「全国宝物取調」の結果を元に京都で「時代品展覧会」を開催したが、そこ では個々の時代間の「連続性」を実物で示すことで「日本美術史」を提示していたことを 明らかにした。 以上の分析により、これまでにない、新しい4つの研究視野が開けた。明治20 年頃制度 化された美術諸制度はいずれも1880 年前後の政治・経済上の危機対応として、大蔵省・ 農商務省という経済官庁の中で、官僚個人の「美術」認識が強く反映されて建議・実行さ れた「結果」であること、その形成・実行過程には思想を共有する官僚の二層構造が存在 していたこと、また、明治初期から少なくとも明治20 年頃までの政府主催の「美術」展は 中国(明・清)に由来する文人意識や文人的美意識を共有する私的な人的結合の存在がそ の成立基盤であったこと、更に江戸期から継承された博物館もしくは華族・社寺の宝物は、 直接的な勧業政策の実施時期には「古代模様」編纂の参照元となったが、その後、観古美 術会での展観など「帝室」と「美術」の結びつけに再利用されており、古社寺保存法によ る「国宝」概念の確定以前は、質的に異なる政策の中で「美術」が再利用され続けていた ことの4つである。 本論文は明治期における、西洋美術(文化)の受容基盤としての江戸期の文人文化を浮 き彫りにし、現代まで続く美術諸制度の設計には、明治期の官僚個人の思想性など、「個人 性」の差異が決定的な役割を果たしたことを明らかにした。, 総研大乙第221号}, title = {幕末・明治の美意識と美術政策}, year = {} }