@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00000045, author = {中原, ゆかり and ナカハラ, ユカリ and NAKAHARA, Yukari}, month = {2017-10-12}, note = {(注)単行本化済み  本研究の目的は、奄美における「シマの歌」を研究することにより、現地の人々のもつ「シマ」(村落)のイメージを明確にすることである。研究方法としてはエスノグラフィーの方法をとり、本稿全体は奄美大島佐仁集落の八月踊り歌をめぐる語りと行動の記録である。  第1章「序論」では、本研究の目的、方法、意義、および本稿で問題とするシマの歌について概説する。シマの歌の概念とは、伝承歌謡が自分たちのシマのものであり、自分たちのシマの歌こそが奄美の中心に位置する最も素晴らしいものであるというシマの人々の意識である。シマの歌は音響として特定することも、そのままの形で姿をあらわすこともなく、実現されるパフォーマンスの中にのみその姿をあらわす。奄美の人々がシマの歌の概念をもつことによって、実現される歌は常に洗練され、シマ社会は維持されている。シマの歌の研究は、歌の洗練とシマ社会を研究するために重要であり、従来の研究が問題としてきた組織や音響といった表層的なシマではなく、シマの人々のもつイメージとしてのシマを考察するために重要である。  第2章「シマの歌の成立」では、シマの歌の概念の成立について、シマの歴史、およびシマ人たちの語りをもとに考察する。シマの歌の概念は、おそくても薩摩藩服属時代末には成立して現在に至るものである。そしてシマの歌の概念をもつシマの人々は、シマの歌はシマの始源から現在まで続くものと認識しており、歌を歌う現在という時は常にシマの始源と重ねあわされている。  第3章「シマの歌社会」では、シマ社会および歌の集団について述べ、シマの歌社会の特徴を考察する。歌の集団としては、八月踊りの時に機能するマエとウシ口の集団、および日常的に活動する自発的な歌クミアイの集団がある。そしていずれの集団にも、個人の参加の自主性、流動性、平等性といった特徴がみられる。シマの自由で平等な歌社会では、個々人は歌に対する自由な感性を語ることができ、現前する歌のパフォーマンスに対する新鮮な「自分の耳」と「開かれた感受性」が育っている。  第4章「シマの生活と歌」では、シマの年中行事、通過儀礼、日常生活において歌が歌われる機会と状況について述べる。歌はシマの生活の様々なコンテクストの中で歌われている。シマの歌の概念は一朝一夕にして身につくものではなく、シマに生まれ、豊かな歌の生活を何年も体験することによってのみ習得される。そしてシマでは、シマの歌に対する感受性を身につけてはじめて、真のシマ人と認められる。  第5章「八月踊りのパフォーマンス」では、八月踊りの奏演と旧暦8月のシマ全体の祭りの中でのパフォーマンスの状況を述べる。八月踊りの輪の中には能力に基づいた秩序があり、技術的に難しいものでありながらも、子供からベテランまで一堂に同じ輪の中で楽しむことができる。1回ごとのパフォーマンスの顔ぶれはシマ人全員の一部分だが、個人はパフォーマンスを媒介に、シマの八月踊りという全体に参加していることを意識している。即興性の強い八月踊りの1回ごとのパフォーマンスの異同は大きい。そしてその即興性を作り出すシマの八月踊りの様式を記憶しているのは、他ならぬシマ人たちの身体である。シマ人たちは年に1度のシマの八月踊りに相当の魅力を感じ、歌い踊ることに情熱を注いでいる。  第6章「八月踊りをめぐる語り」では、シマ人たちによるパフォーマンスの評価、および八月踊りの記憶とともに語られる個人の人生経験について述べる。シマの八月踊りは演者と鑑賞者にわかれることなく、誰もが歌い踊る楽しさを共有することを基準として、常に洗練されている。1人1人の人生経験や親しい人の顔ぶれも、皆それぞれに異なっている。だが、個人が気づくことのなかった自分を発見することも、自分の感情を表現することも、すべては集団で歌い踊る八月踊りのパフォーマンスに参加することによってのみ可能になる。そして、個人は八月踊りを「シマのもの」であると同時に「自分のもの」と意識して、積極的にパフォーマンスに参加している。個人のもつ八月踊りの芸に対する評価は、歌や踊りの技術、生き方(あるいは人格)そして人間関係といった要素が複雑にからみあってなされている。個人の人生には限りがあっても、芸は永遠に終わることはない。それによってシマの人々は、シマの八月踊りが永遠に続くものであると考えている。シマ人にとってシマの八月踊りとは、歳月をかけて身につけてきた技術であり、個々人の人生そのものであり、シマに暮らす周囲の人々との生き生きとした関係なのである。  第7章「八月踊りの競い合い」では、佐仁のシマの内部にあるマエとウシ口の2つの地区でパフォーマンスを競い合う状況を述べる。マエとウシ口は佐仁の八月踊りという同じ様式の範囲内にあるが、同質なためにかえって細かな差異にも敏感である。マエでは誰もが参加しやすいという観点から佐仁の八月踊りの中心はマエであると主張し、ウシ口では伝統を守るという観点から佐仁の八月踊りの中心はウシ口であると主張している。同じシマの内部に互いに異なる「内なる外部」を作りだし、競い合うことによって、シマは強く意識され、シマの八月踊りは洗練されている。  第8章「八月踊りとシマの外部」では、八月踊りがシマの外部で上演される状況について、シマを訪れるテレビ局の撮影、および本土での舞台出演について述べる。シマ人たちは、シマの外部の観衆の目を意識して歌い方や踊り方に工夫をこらし、シマの祭りでのパフォーマンスとは異なる方向へ歌と踊りを洗練している。しかし、佐仁では2つの洗練の方向は対立することはない。シマ人たちは、状況に応じて2つのパフォーマンスを楽しんでいる。また、舞台への出演者は数十名でも、シマの全員が真剣に取り組むことは、シマの祭りと同様である。そして舞台でも全員が歌と踊りを心から楽しむことを目指し、シマの八月踊りが歌い踊る「今」 「現在」の状態の中に体現されることには変わりがない。さらに過疎化によってシマが衰退する現在、八月踊りこそがシマの継続と繁栄を象徴するものと考えられるようになってきている。  「結論」では、本稿全体をもとに、歌を通じてシマの人々のイメージするシマについて考察する。シマとは、個人と個人、個人とシマ、シマとシマ、シマと国家といった様々なレベルの内と外との交換によって醸成され、再生産し続ける豊かなるイメージである。そして豊かなるシマのイメージは、奄美では他ならぬ伝承歌謡によってつくられているのである。, 総研大甲第163号}, title = {歌に表象される村落意識 : 奄美における「シマの歌」の研究 *(注)本論文は単行本としてすでに刊行されている。中原ゆかり『奄美の「シマの歌」』 1997.弘文堂}, year = {} }