@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00000054, author = {内山, 純蔵 and ウチヤマ, ジュンゾウ and UCHIYAMA, Junzo}, month = {2016-02-17, 2016-02-17}, note = {縄文時代の文化が展開した日本列島の環境はきわめて多様で、縄文社会が取り得た生業形態も時期・地域によって変異に富んでいたと考えられるがその具体的な姿についてはほとんど未解明である。一方、Koyama(1978)以降、縄文時代遺跡が中央構造線(フォッサ・マグナ)以東に圧倒的に集中し、西日本において希薄であることが指摘され、これが実際の人口分布を反映しているとの仮定から、当時の人口が東日本に偏っており、こうした偏りが落葉広葉樹林を主体とする東日本と照葉樹林を主体とする西日本の資源量の差に起因すると論じられてきた。しかし、実際の資源量の差は復元された人口差を説明できるほどのものではない。本論文は、西日本においては考古学上認識が困難な遺跡が数多く形成された結果、西日本において縄文遺跡が希薄にみえる結果となったのではないかという仮定に基づいて、縄文時代当時の生業構造と空間利用構造を復元し、縄文時代にみられる遺跡分布上の偏りを説明しようとしたものである。  生業形態の復元には、出土動物遺存体の分析を通じて、生業活動の季節性や遺跡の生活上の機能などを直接解明する分野である、動物考古学的手法を分析方法として用い、その結果を現生の狩猟採集文化に関する民族考古学的データから作成したモデルと比較することで、当時の生業構造をより立体的に明らかにしようとした。また、西日本地域の中でも、湖やラグーンなどの淡水環境に直面する低湿地立地型の貝塚が数多く形成された早期末から中期初頭(7,000-4,500年前)の日本海側から琵琶湖湖畔にかけての地域に着目する。その上で、当該地域の主たる3遺跡、すなわち福井県三方町鳥浜貝塚の1984年度発掘地点(前期、6,000-5,000年前、以下「鳥浜1984」)、滋賀県大津市粟津湖底第3貝塚(中期初頭、4,500年前、以下「粟津第3貝塚」)、同県守山市赤野井湾遺跡浚渫A調査区(早期末、7,000-6,000年前、以下「赤野井A」)の動物遺有体を分析する。具体的には、(1)主要な狩猟対象であるニホンジカとイノシシの下顎骨・歯などの状態を死亡時季の明らかな現生の個体群のデータと比較して、狩猟活動の季節性を特定し、さらに魚骨や植物種実など、他に生業活動の季節性が推定できるデータと統合して、季節性の全体像を推定し、次に(2)遺存体の保存状況について化石生成論(Taphonomy)の立場から検討を加え、そのうえでニホンジカとイノシシの出土部位の寡多を日本のマタギや北米西海岸先住民、アラスカのカリブー猟などの民族誌的データと比較し、これをもとに遺跡の生活上の機能を推定し、(3)粟津第3貝塚については出土イノシシの家畜化についての検討を、また赤野井Aについては魚類遺存体のデータの分析から(1)と(2)で明らかになった生活構造を支持する要因について考察を行い、(4)最後に全体を統合して当該時期に西日本の日本海側がら琵琶湖周辺に存在した社会の生業構造と空間利用について考察する、という手順を踏んだ。  第2章では、鳥浜1984出土の動物遺存体を分析した。まずニホンジカについて、下顎骨・下顎歯などの計測データを、1984年初の冬季に死亡した栃木県足尾町のニホンジカ個体群と比較し、ニホンジカ猟が夏 - 秋季の時期に限定されていたことを示した。他方、イノシシ遺存体を冬季の狩猟期に捕獲された兵庫県篠山町のイノシシ下顎骨のデータと比較すると、イノシシ猟が冬一春季にほぼ限定されていたことが判明した。また、フナ類など淡水魚類が主体の魚類がほぼ春 - 夏季、また植物種実は秋季に獲得されたと推定できるから、鳥浜1984ではイノシシ以外の生業活動がほぼ春季の終わりがら秋季にかけて集中していることになる。一方、遺存体の保存状況は良好で、民族誌例との比較では、ニホンジカが集落拠点(residential base)、イノシシが狩猟キャンプ(hunting camp)とそれぞれ推定できることから、鳥浜1984は春季の終わりから秋季にかけて集落拠点、冬季にはイノシシ猟に限定された狩猟キャンプとして機能し社会集団の拠点は内陸などへ分散していたと結論できる。  第3章では、粟津第3貝塚の分析を行った。ここでも、ニホンジカ猟は夏 - 秋季を中心とし、イノシシ猟は秋 - 冬季に集中していた。貝類の採集は夏季に集中し、漁労活動は淡水魚類の産卵期である春 - 夏季と判明するなど、ここでもイノシシを除く生業活動が春季の終わりから秋季にかけて集中している。また遺存体の保存状態は良好で、民族誌例との比較から、ニホンジカ・イノシシ猟いずれにとっても集落拠点へと判明した。一方、下顎歯の分析から、イノシシの一部が家畜化されていた可能性が強く、また野生個体は、罠または追込み猟によって捕獲されたとみられる。以上から、粟津第3貝塚は周年、集落拠点となっており、家畜個体群の維持やトチ種実の処理が行われ、より大規模で安定した定住本士落となっていたと推定した。  第4章では、赤野井八の分析を行った。数多くの人為的に作られた土抗が検出され、動物遺存体はこれらの中から出土したが、焼けた小石が詰まった集石上坑と、炭化物のみが詰まった土坑との間で行った比較分析の結果、集石上坑は日常的な食料調理、もう一方では春 - 夏季にかけて大量に捕獲可能なフナ類などのコイ科魚類の保存加工が行われていたと判明した。一方、イノシシと魚類遺存体の分析から遺跡の居住期間は春 - 秋季に限定されていたこと、イノシシの身体出土部位から集落拠点として機能していたことが推定できる。栄養評価では、コイ科魚類の占める割合は比較的高く、季節的に大量捕獲が比較的安定して期待でき、かつ保存処理の可能なコイ科魚類資源が定住を支持する大きな要因であったと推定できる。反面、これが期待できない冬季には内陸高地などに拠点を移していたと結論した。  以上、第2章から4章までの結果から、早期末から中期初頭の当該地域では、コイ科魚類などの季節的食料資源をもとに、春 - 秋季の淡水性低湿地に集住が行われたと推定できる。こうした生業戦略を、「低湿地生業戦略」として捉えると、この戦略は少なくとも早期末には確立し、前期に最も広がり、中期初頭のイノシシ家畜化やトチ種実の利用開始と前後して新たな段階に変容したと考えられる。生業戦略の維持は意図的に行われ、社会集団の構成に大きな影響を与えていたと考えられるから、このような生業戦略の広がり(生業圏)は、人工遺物の分布によっても把握できよう。本論では、その指標となる可能性のある骨角器の例を呈示した。当該地域には、淡水性の環境と、コイ科魚類が集中しており、低湿地生業圏=「フナとコイの縄文文化」が展開していたとみることができる。最後に、調査の困難な低湿地に大遺跡が立地する傾向がある点が、当該地域を中心とする西日本で確認された縄文時代の遺跡数が見かけ上少ないことの重要な原因であると指摘した。, application/pdf, 総研大乙第95号}, title = {低湿地立地の遺跡にみる縄文時代本州西部地域の生業活動-縄文時代早期末から中期初頭における若狭湾沿岸と琵琶湖周辺地域の動物考古学的考察-}, year = {} }