@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00000060, author = {南出, 和余 and ミナミイデ, カズヨ and MINAMIDE, Kazuyo}, month = {2016-02-17}, note = {本研究は、バングラデシュ農村社会で暮らす子どもを対象に、子どもと社会の関わりを 「子ども域」という新たな概念で捉え、その特徴を明らかにすることを目的とする。これ まで「子ども」は、おとな社会からは切り離された一枚岩的存在か、あるいは社会に対し て受身の存在としてしか捉えられてこなかった。それに対して本研究は、社会と子どもの 接点を積極的に見出すことを目指す。そのために、子どもがいかに規範や価値を獲得して いるかという子どもの視点と、当該社会のおとなが「子ども」という存在をどのように見 ているかという子ども観を相互補完的に検証しながら、子どもたちの、他者との相互行為 を通じた日常実践の動態を検討する。  第1章では先行研究のレビューを通じて「子ども域」への着目に到った経緯を追う。新 たな概念を提示するにあたって、社会化の議論や「異文化としての子ども」の議論を概観 し、「子ども域」はこれら従来の議論や痕念では捉えられないものであることを示す。第2 章では、子どもたちの日常生活世界を具体的かつ詳細に記述し、おとなの子どもへのまな ざしと子どもの行為が出会う場に「子ども域」を見出す。結果、おとなによる子ども認識 と子どもの生活時空には、子どもの役割や家庭での位置づけによって導かれる段階的な推 移が見られた。また段階的推移とは別に、おとなたちは「子どもはプジナイ(分からない) から仕方がない」という認識によって、子どもに対しておとな社会の規範からの猶予を許 す。子どもたちはこの「プジナイ」として許される猶予領域のなかで、自らの判断や意向 に基づいて社会との関わりを展開する。この領域が、本研究が注目する「子ども域」であ る。猶予領域としての「子ども域」は、ときにおとなからの働きかけや、そこで展開され るおとなと子どもの交渉によって徐々に規定され、その領域を狭めていく。子どもたち自 身もまた、子ども同士の関係を築くなかで、おとな社会の規範を取り込みながら、自らの 行動を規定する。続く 3、4、5章では、「子ども域」がいかにして確保され、どのように 規定されていくかを、具体的な場面から検証する。第3章では、子ども間の相互行為から 彼らが自ら規範を作り上げていく過程を捉えるために、遊び集団に注目する。子どもたち の遊び集団には、その構成員と遊び内容から、4段階の集団形成を捉えることができる。 子どもたちは、段階的な集団を形成しつつ、徐々に自らの属する集団をずらしていく。こ の絶えず流動的な集団形成とそのなかでの位置づけを通して、子どもたちは各集団のもつ 行動規範を獲得し、それを自らの「ブジ(理解)」と認識する。その獲得の現場に作用して いるのは、彼らの集団への帰属意識やポジショニングにある。その規範は同時に、当該社 会のおとなの規範とも繋がっている。その理由は、「ブジナイ」から「プジ」へという規範 の繋がりと、規範を明確にもつ上位集団への(やがておとな社会へと通じる)段階的な移 行の機能にあるものと考える。  第4章では逆に、おとなからの働きかけに「子ども域」を捉えるため、子どもの成長を 文化的に規定する通過儀礼に着目する。男子割礼を事例に、割礼が子どもたちに何をもた らすかを検討する。その結果、割礼はムスリムとしての儀礼であるが、その実施において は、人びとの宗教的意義への意識は弱く、むしろ儀礼を通じてムスリム地域コミュニティ の一員であることを示す意義の方が強い。また子どもに割礼がもたらされる経緯において は、親たちは子どもに、割礼や、あるいはコーラン学習や断食といった義務を強制しない。 子どもたちはやがて「できる/できない」の自覚をもち、できないことを「恥ずかしい」 という概念でもって認識し、自ら段階的な規定を踏んでいく。つまり当該社会では、子ど もの成長の文化的規定は、それをおこなわないという選択はないが、いつするか、できる かできないか、という決定には子どもの自主性に任される余地(子ども域)がある。それ ゆえ、割礼を受ける当事者の子どもたちは、割礼をただ受動的に受けるのではなく、彼ら なりの意義を見出し、積極的に受け入れている。  第5章では、子どもの生活世界に新たに導入される学校教育に注目する。現在のバング ラデシュには複数のタイプの小学校が存在し、子どもやその親たちはどの学校に通うかを 選択する。なかでも注目したのは、各学校に対して子どもたち自身が意見をもっているこ とである。彼らは子ども同士の交流を通して他の学校の情報を得て、各学校を比較し、評 価する。そしてときには彼らなりの理由によって、親の許可なく学校を転校することさえ ある。それに対して親たちは「子どもは分からないから仕方がない」といって放置する。 この「分からないから仕方がない」というおとなから子どもへの「放ったらかしの自由」 は、親たちが学校教育についての明確な認識や期待をもっていないことによって支えられ ている。つまり、新しく登場した学校は現代の子どもの空間に過ぎないという変容期ゆえ に、おとなと子ども双方による学校選択が成り立ち、そこに「子ども域」が確保されてい る。今後、学校が子どもの生活に定着すると、「放ったらかし」の領域は失われ、子どもが 各学校を評価するような「子ども域」の余地もなくなることが予想される。  以上本研究で明らかになったのは、社会のなかでおとなが子どもを「プジナイ(分から ない)」として規範を免除し放置する猶予領域でこそ、子どもは社会との関わりを積極的に 展開しているということであり、 その領域が本研究でいう「子ども域」である。それは、 段階的に規定されていくなかで残された残余の領域であり、確固として確保される領域で はないために脆弱かつ可変的である。それゆえおとなの規範の影響も容易に受ける。そし て、彼らが段階的に規範を獲得し、自らを規定していく現場に作用しているのは、おとな からの直接介入や宗教的意義の理解などではなく、子どもたちの集団性とそのなかでの「分 かっている(プジ)私」の認識である。おとなたちも、子どもを「プジナイ」としながら、 いずれは「ブジ」を得るであろうという了解のもとで、子どもに規範を強制しない。これ らをまとめると、「子ども域」を可能にする要素には、①おとなからのあくまで放ったらか しの自由、②子どもの集団性の機能、③観察し得るおとな社会の近しさ、があり、それら が子どもの能動的な社会への関わりを導いているのである。  どのような社会でも、子どもは成長とともに徐々に関係や規範を内在化し、体現してい く。その過程において、おとなのまなざしと子どもの能動的な行為がいかに出会うかを捉 えることは重要である。「子ども域」の概念は、そうした社会(おとな)と子どもの関係性 を捉えるための新たな視点を提示する。さらに本研究は、これまでのバングラデシュ地域 研究を子どもの視点から捉え直す役割も担っている。すなわち、子ども期というエイジン グの初期段階における、関係性のなかでの「プジ」(規範の獲得)という側面を、本研究は 明らかにし得たものと考える。, 総研大甲第1019号}, title = {「子ども域」の文化人類学的研究 -バングラデシュ農村社会の子ども-}, year = {} }