@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00000062, author = {米山, 知子 and ヨネヤマ, トモコ and YONEYAMA, Tomoko}, month = {2016-02-17}, note = {本論文の目的は、トルコ共和国のアレヴィーと呼ばれる人々が本来儀礼の中で実践して きた身体技法セマーと、1950年代以降のトルコ社会の変化をきっかけに多様化する、都市 イスタンブルにおけるセマー実践の「場」に焦点を当て、セマーの現代都市での役割をパ フォーマンス研究および人類学的視点から考察し、更にそこから、パフォーマンスとそれ が行われる場の関係性を明らかにすることである。本論文執筆のための調査は、主にトル コ共和国イスタンブルで2003年から2007年にかけての計5回、のべ1年3ヶ月行った。 序章では、先行研究を検討し、本論文の位置づけを提示した。まず、セマーを狭義の舞 踊danceとは捉えず、アレヴィーの世界観を記憶した身体技法と捉え、本論文における分 析概念としてのパフォーマンスの位置づけを提示した。とくに、従来のパフォーマンス研 究では充分に検討されてこなかった、パフォーマンスとそれが実践される「場」の関係と いう視点が、セマー研究にとって重要であることを指摘した。本論文における「場」とは、 様々な要素が時間と共に構成される「空間」、イスタンブルなど「地理的場所」、そしてセ マーが実践される「コンテクスト」の3つの意味内容から成る。また、近年増加している アレヴィーおよびセマー研究は、一枚岩的にみられがちであったアレヴィーのセマーを、 ミクロ・マクロ両視点から捉え動態的に描き出している。本論文もそのような視点に立つ が、より生きたセマー(アレヴィー)を描き出す。 第1章では、近年増加しているアレヴィー研究に準拠して、アレヴィーの信仰・歴史を 概観し、続いてセマーの概要を記述した。アレヴィーは、長い歴史の中で独自の文化を育 んできたが、その過程で多数派であるイスラーム教スンニー派の人々からは、宗教実践の 差異を理由に異端視されてきた。その例が、男女一緒に行われる儀礼ジェムであり、ジェ ムの構成要素の一つで信仰心の表れとされるセマーである。アレヴィーは、政教分離を国 是とするトルコ共和国建国以降においても、宗教的支配構造から脱却することのできない トルコの政治的動向に常に翻弄されてきた。そのようなスンニーとの葛藤の中で、セマー はアレヴィー自身によって世俗化、平等主義を特徴とするアレヴィー性の象徴として表象 されるようになった。 第2章では、1950年代以降の都市への移住によって、それまでのアレヴィー共同体と は異なるシステムが形成された経緯を述べた。その中心は、相互扶助やアレヴィーの信奉 する聖者の廟、彼らの残した文化の保持を目的に活動を行う「アレヴィー文化協会dernek」 である。アレヴィー文化協会では、都市での様々な「不安」を解消するための活動が行わ れており、そのひとつが「セマー教室」である。都市において、セマーが第三者によって トルコ文化(民俗舞踊)の一つとして切り取られることになり、セマーは「信仰」の表れ であり、「舞踊」ではないというそれまでのアレヴィーの価値観が変化することになった。 そうして、協会およびセマー教室の生徒によって、アレヴィーの象徴であるセマーはいく つもの実践の「場」を形成することになり、セマーはそれを取り巻く一般トルコ社会に提 示されている。 第3章では、以上の経緯を経て生成されたいくつものセマー実践の「場」を、身体技法 としてのセマーとそれが行われるコンテクストという観点から、(1)儀礼、(2)セマー教 室、(3)公演、(4)商品としてのセマー(映像作品)、(5)それ以外、の5つに分類し、 それぞれの場におけるセマーチュおよび参加者の身体動作ややり取りを記述した。そこで は、アレヴィーとトルコ社会の相互作用が絶え間なく行われており、続く第4章で、アレ ヴィーがセマーを「現在のアレヴィーの象徴」として提示するために、そのような相互作 用の結果生み出した仕掛けを明らかにした。 まず前提として、身体技法セマーを実践する担い手の身体と彼らの意識が存在する。そ れらを取り巻き浮かび上がらせるために、場におけるモノの配置と諸レベルでの言説がセ マー・パフォーマンスを構成しており、現在の都市のセマーは、それらなしでは成り立た ない。さらに担い手の語りからは、セマーが立ち現れる時空間には、そこにいる参加者は それまで属していた構造から一時的に解放されていることが浮かび上がった。その時、様々 な情報が幾重にも重なっている彼らの思考の中には、「現在のアレヴィーのセマー」という 存在が組み込まれる。多様化するセマー実践の場に対する評価はどうであれ、そのような 経験を経てセマー(アレヴィー文化)を記憶する人、つまり、いつかセマー(アレヴィー 文化)を観た(経験した)という記憶を呼び醒ます可能性を秘めた人を増加させることが、 現在のアレヴィー文化協会の意図するところなのである。 以上の考察のもと終章では、まず現代都市におけるセマーとセマー実践の場の役割を検 討し、続いて、パフォーマンスとそれが実践される場の関係を明らかにした。セマーと様々 な仕掛けが施されたセマー実践の場は、現在のアレヴィーにとって自省の場となっており、 さらに「アレヴィー」という存在がトルコ社会で存続していくための重要な場である。ま た、トルコ都市社会でセマーはそれまでの「信仰」とは異なるアレヴィー世界の生産の場 として機能しており、全体社会との間の異質性を調節する緩衝装置の役割を果たしている。 さらに、アレヴィーのセマーがパフォーマンスとして成り立つためには、トルコの都市 という地理(社会)的条件の下にうまれた身体技法とともに、当事者たちが身体技法を媒 介に自分達を取り巻く社会との相互作用の結果捻出した指標としての様々な「仕掛け」、つ まり「パフォーマティブな行為やモノ」が必要となってくる。さらにパフォーマンスは、 身体技法が置かれている「地理的場所」、その地理的場所を取り巻く「コンテクスト」、地 理的場所とそれぞれのコンテクストの中で実践者が生みだした様々な仕掛けが織り成す 「時空間」から成る「場」に置かれることによって、可視化され、観るものの眼前に出現 する。したがって、「パフォーマンス」はそれら「場」を構成する三要素と重なり合って成 立するものであり、場とパフォーマンスは一体のものと言うことができるのである。ある パフォーマンス、とくに当事者のアイデンティティーの発現形態としてのパフォーマンス を考察する際は、それが実践される「場」にも注意を向けなければならない。 今後は、アレヴィー文化協会を取り巻く社会、つまり、スンニーの人々や全く協会の活 動に関心のないアレヴィーたちの、セマー実践に対する意識や関わりの度合いを検討する 必要がある。そうすることによって、トルコ社会におけるセマーの役割やセマー実践(パ フォーマンス)の場が広範囲に浮かび上がり、場とパフォーマンスの関係性もより多角的 に捉えることができると考える。, 総研大甲第1084号}, title = {「場」と「パフォーマンス」に関する人類学的研究 -トルコ・都市におけるアレヴィーのセマーを例として-}, year = {} }