@article{oai:ir.soken.ac.jp:00006234, author = {IIDA, Kaori and 飯田, 香穂里}, journal = {Studies in History and Philosophy of Science Part C: Studies in History and Philosophy of Biological and Biomedical Sciences, Studies in History and Philosophy of Science Part C: Studies in History and Philosophy of Biological and Biomedical Sciences}, month = {Apr}, note = {application/pdf, 本稿では、原爆傷害調査委員会(ABCC)と日本の科学者コミュニティーの双方が、それぞれの科学的・政治社会的目標を達成するため、どのように交流し、どのような影響を互いに及ぼしたのかについて見ていく。1950年代半ば、ABCCの日本における関係性は悪化の一途をたどっていたが、当時貴重だったラジオアイソトープが協力の機会を生み出した。1955年、ABCCは関係改善の一環として広島にアイソトープ研究室(Radioisotope Laboratory)を設置した。日本の科学者らは、この研究室が地域の科学プログラムの発展につながることを期待し、その設置を歓迎した。一方、ABCCは、この研究室の正当性を担保するため、日本の科学者の協力を必要とし、著名な科学者を様々な形でABCCに迎え入れた。さらに原子力平和利用に対する一般市民の理解を促進するため、広島平和記念資料館での平和利用に関する常設展示を計画した。本稿では、ABCCを戦後日本の医学・科学史の広い文脈の中におくことにより、日本のコミュニティーのニーズや願望がABCCの活動に影響を与えたこと、また、ABCCとの交流が日本の科学・医学研究にも影響を与えたことを示す。最後に、日米双方のアイソトープ研究の推進を背景に、被爆者を含む日本の被験者に対するアイソトープ(特に放射性鉄)の使用が拡大したことを指摘する。}, title = {1950年代の「平和の原⼦」ラジオアイソトープ: 原爆傷害調査委員会と⽇本の科学者コミュニティー双⽅の科学的・政治社会的資源として}, volume = {80}, year = {2020} }