@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00000090, author = {唐, 権 and トウ, ケン and TANG, Jian}, month = {2016-02-17}, note = {日中関係史、あるいは日中文化交流史研究の基本課題は、両国共有の過去にあった様々な局面を、歴史の本来の面目に従って再現し、そして意味を賦与することである。従来の研究において、日中交流は主として「文明摂取のための運動」、あるいは通商貿易の文脈において論じられてきた。それに対して、本研究ではまずホイジンガの「遊び」論に依拠しつつ、この二つの領域以外に、もう一つ、即ち「風流」という領域が日中交流の中で大きな比重を占めていたことを強調した。具体的にいうと、17世紀末期から19世紀末期までの二百年間、数多くの中国人と日本人が交流・接触していた過程の中で、様々な男女の艶事が演出され、それが当時両国間の人的交流の主要な形態であった。本論文の中心課題は、即ちこれらの艶事に焦点を当て、そのような現象を生み出す歴史背景を探り、その様相を描き、さらに日中関係における位置付けを分析することである。
 本研究では考察範囲を、主として近世以降両国の交流が集中的に行われていたいくつかの「場」に限定し、特に江戸時代の長崎と19世紀後半の上海を重点に扱った。長崎と上海がそれぞれ江戸時代と近代において日中間の交易と通商の中心地として、人的交流がもっとも活発に行われた場所であった。そして両都市で行われていた両国間の交流は、時代と地域の差により様相が大きく異なったものの、歴史的連続性を有していた。本研究の主要な対象は、まさに長崎と上海を舞台に活躍していた交流の担い手たち一長崎へ渡った江南の人々、上海へ渡った「東洋妓女」、それから明治日本へ旅した近代上海の文人である。
 第一章は、明から清への王朝交替、また1684年以降「唐人貿易」が大規模に展開し始めたという歴史的な変化を背景に、長崎へ渡った中国人と丸山遊女との関わりを手がかりにして、当時の中国人にとっての長崎の位置付けを再考した。その中で、まず指摘したのは、当時長崎にいた中国人の中に、単なる貿易のためではなく、遊楽を目的とした人も多くいたという事実である。これらの人々の存在、また唐人屋敷に漂っていた享楽的、エロチックな雰囲気がまきに「唐人貿易」に隠されたもう一つの側面であり、それはまた「唐人貿易」を持続させた重要な要素に他ならなかった。そしてこの現象を生み出した背後には、中国の海外交通の発達と隆盛、江南地域の娯楽業の衰微、房中術に現れた中国人の「遊女幻想」、幕府の唐人歓待政策など多くの理由が考えられる。これらの要因がもたらした結果として、長崎は単なる貿易都市ではなく、近代以前の東アジア世界における唯一の国際的な「遊興都市」となった。さらに、中国人と遊女との関係は、近代以降の日中関係にも影響を与え、その延長線上にあるのは、幕末上海へ渡った「東洋妓女」たちであった。
 第二章は近代上海の「東洋妓女」を対象とした。清末上海で出版されたさまざまな都市案内書、それから「花傍」といった遊女の評判記や番付け、さらに日本外務省の文書などの資料を発掘し、同時に戦前日本の「法人海外発展史」の研究成果を参考しつつ、今まで殆ど忘れ去られた「東洋妓女」たちの歴史像を浮き彫りにし、彼女たちをめぐる中国と日本の葛藤と札轢の歴史を解明しようとした。本章の具体的な内容につり)では次のように構成する。まず近代上海が持っている文化的特質および上海に置かれた「東洋妓女」の社会的性格を説明し、それから明治維新以降「東洋妓女」が上海へ渡った経緯、人数の変遷、「東洋茶館」の増減と分布、「東洋茶館」内部の様子など「東洋妓女」に関する様々な局面を取り上げ、その一つ一つの局面に関する資料を解読、分析した上、当時の日中交流の中に彼女たちが如何に大きな存在であったかを証明した。また、上海の人々が創った「東洋妓女」イメージと関連して、特に強調したのは、「東洋妓女」が単なる春をひさくことを生業とする存在ではなく、詩を創り、画を描き、音楽を演奏する彼女たちが上海の男たちの「風流」追求の対象であった、ということである。最後に、1880年代から20世紀初期に至る間、日本政府が上海の日本娼妓を法律で統制する過程を分析し、近代中国と日本の衝突が文化的相克という側面を有することを指摘した。
 「東洋妓女」とほぼ同じ時期に登場した上海文人に対する考察は第三章の主題である。日中間における蒸気連絡船の登場、そして1860年代以降拡大しつつあった両国の交流は、中国文人たちの文化創造の活動にどのような影響をもたらしたのだろうか。この章では一人の文人・王霜に焦点をあて、彼と日本との交流を追跡した。その中で特に注目したのは、この交流の多様性、またその多様性に対応する彼の思想の多面性である。啓蒙思想家としての王楯は日本についての知識を吸収し、日本の西洋化に関心を寄せていた。そして日本の西洋化政策に対して、彼は常にそれを中国の「洋務運動」と比較しながら、時には称えたり、時には疑したりした。一方、「儒教的民族主義者」として彼は早くも日本の脅威を意識し、独自の「海防論」を主張しながら、つねに明治政府の拡張主義を強く批判する姿勢を示していた。他方、文人としての彼は、日本を憬れの仙境とし、吉原や柳橋を舞台に数々の「風流」を演出した。彼はまた政治見解上の対立を超越して数多くの日本人と交わりを結び、そして文人同士としての親近感と連帯感から出発して、中国と日本の「同文同種」を主張した。文人としての彼はさらに文学作品の創作を通して一種の中国的「日本趣味」を発展させたのであった。王楯と日本との関係の多様性と多面性は言ってみれば近代中国と日本の複雑な関係そのものの反映に他ならない。
 風流な艶事として現れた壮大な交流。中国と日本にとって、それはそれぞれの歴史に特筆すべき大きな出来事であった。さらに、人々の自由な精神と豊かな真情が溢れた交流を通じて、両国の間には、新しい国際的な文化領域が出来た。それら艶事の歴史的意義はまさにここにあるといえよう。, 総研大甲第566号}, title = {海を越えた艶事-中国と日本の人的交流1684~1895}, year = {} }