@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00000092, author = {森本, 一彦 and モリモト, カズヒコ and MORIMOTO, Kazuhiko}, month = {2016-02-17}, note = {日本社会では家が非常に影響力を持っているというイメージが描かれている。しかし、そのー方で人類学や民俗学の成果として家の通念に反する慣行の発掘が行われてきたのであった。本論文は近世に成立する家を人家者に注目して分析した。たとえば、半檀家・つまどい婚・位牌の分牌などがそれにあたる。そのような家の通念に反する事例を分析することによって家の以前の家族・親族、家の成立・解消の歴史的変遷を究明することが可能となると思われる。 本論文では半檀家を分析対象とした。半檀家は家の構成員によって檀那寺を異にする慣行である。半檀家を分析するだめの資料としては宗門改帳を使用した。宗門改帳を使用することで、歴史的変遷を時系列に追え、数量的分析が可能になるメリットがある。従来考えられていた家の通念では、人家者は家に従属するとされたが、半檀家では生家の檀那寺を持込むことがあり、生家との関係性の強さがあらわれていることが分かる。 半檀家は宗門改帳が作成される近世初期にみられるが、人家者が生家の檀那寺を持ち込むのはそれ以前の・潰行が影響していると思われる。ただし、子どもへの継承は、宗門改帳の作成が要求されたことにより、男女別や父系的な継承として記載される。半檀家の社会的な背景は、宗門改制度以前にあったと思われるが、宗門改帳の記載によって半檀家の近世的成立があったと言える。しかし、それらの記載は、実態にあわないことから機械的な継承は崩れることになる。そこには子どもへ何としても上位世代の檀那寺を継承させようとする意識が見える。 このような半檀家も歴史的変遷を経て、一家一寺へと変化するが、それは宗門改の事務的な問題が大きかった。寺檀争論の中で盛んにそのことが主張される。一方、寺側の主張からは、半檀家における正当性は名跡や跡式によることが伺える。半檀家が単なる寺檀関係にとどまらず、経済的な意味合いをもち、継承と密接な関係を持っていたことが見えてきた。つまり、半檀家の社会的成立要因として、人家者が単に檀那寺を持込むだけでなく、その背後に名跡や跡式といった経済基盤の継承があったと言える。 一家一寺の流れの中で、半檀家は家付き半檀家として残存することになる。持込み半檀家から家付き半檀家~変化したのである。つまり、半檀家の質的変化であった。家付き半檀家は、一家一寺の準備段階であり、持込まれた先祖はその家に取り込まれていく。 現代からみると、半檀家は、奇異な慣行として捉えられるが、それは複数の系譜をたどる先祖を同時に祭此することへの違和感からである。われわれがもつ単系的な先祖観は、人家者が祭肥すべき先祖を持込む近世における持込み半檀家を特殊な慣行として捉えている。しかし、現代人との感覚のズレは、持込み半檀家から家付き半檀家への転換、さらに一家一寺への転換するという歴史的変遷を経て形成された。その後の明治民法の制定によって、一家しての先祖祭祁が完成する。その結果、われわれは1系統の先祖を祭祁することを当然と考えるようになったのである。 このような先祖観を持っているということは、われわれが明治民法にみられる先祖祭此を中心とする家の影響を受けていることの証しでもある。そのような影響は、我々だけではなく、有賀・喜多野論争などの学術的議論の中にも反映している。それらの議論はあくまでも明治民法における先祖祭祁を中心とした家が前提になっていたのである。 柳田国男が『先祖の話』に論述した死者の魂は浄化されて、没個性的な先祖へとまつりあげられると想定される抽象的な先祖祭肥もまさに近代に作られたものであった。そして、そのような先祖は、村の氏神へとつながるものとされ、すべての慣行が先祖へつながると考えられたが、柳田は決して学術研究としてこれらの先祖観を述べたのではなかった。彼が目指したのはあくまでも経世済民の学であって、何が人々に重要であるのかを考慮して、啓蒙的に論述したのである。森岡清美は柳田の先祖観が初期から戦中・戦後と変化していたが、初期の柳田は近親である死者の霊を対象としていたのに対して、『先阻の話』では非常に抽象的な先祖が書かれた。柳田民俗学の本質であったと言える。 家を単位とした単系的先祖観は、近世中後期における持込み半檀家から家付き半檀家や一家一寺への転換によって準備された。そして、明治民法制定によってその方向付けがなされた。そして、戦後の新民法によって、先祖祭此を中心とする家が解体するとともに単系的先祖観も解消するはずであったが、柳田を中心とした先祖論によって強化され、われわれが抱く伝統的先祖観になっている。 そのような先祖観が形成される以前には、持込み半檀家が存在していて、人家者が先祖を持込む状況が存在した。家単位でみれば、複数の系統の先.祖を祭此する状況が展開していた。しかし、それは家が先祖祭此の義務を負っていたのではなく、あくまでもある個人に先祖祭祁の義務が負わされていた。その根拠は先祖祭此のための経済基盤であり、分割相続にともなって先祖祭肥の義務も分割され、移動していたのである。 近世における半檀家の展開は、われわれに家以前の家族・親族のあり方を示すとともに、それに付随する先祖観の変化を示している。 そのことからみると、半檀家が持込み半檀家から家付き半檀家へと変化することは、先祖祭肥を中心とする家の成立であり、明治民法の制定によって、近世からの家の先祖祭祁がより強化されたと言える。柳田国男などの民俗学者が抽象的な先祖を強調してきたことは、近世に半檀家的なものを認めた先祖祭此から、近代に入ると完全に家の先祖祭祁に統一されたことの表れであったし、また柳田の論調が先祖祭此与えた影響も大きがるたことを意味する。 本論文では、半檀家の分析を通じて、その解消の過程のなかで、先祖祭祁を中心とする明治の家がどのように成立したのかという見通しを述べた。半檀家の分析をすることによって、近世から近代の流れの中で、単系的先祖祭肥が複雑な経緯をたどりながら成立してきた過程が明らかになったのである。, 総研大甲第643号}, title = {半檀家にみる「家」の歴史的展開一宗門改帳の数量的分析}, year = {} }