@misc{oai:ir.soken.ac.jp:00000096, author = {那須, 浩郎 and ナス, ヒロオ and NASU, Hiroo}, month = {2016-02-17}, note = {本学位申請論文は,初期稲作・雑穀作農耕の栽培形態を日本と中国で比較し,その共通点を見出すことで,農耕の伝播に関する新たな仮説を提示しようというものである。稲作を中心とした農耕の伝播に関する諸説はこれまで様々なものが提示されてきたが,どれも決定的なものではなかった。すなわち,稲作が水稲作で伝播したのか,それとも陸稲作の状態で伝播したのか,雑穀作は伴っていたのか,それらの時期は一度なのか,それとも数度あったのかなどといったことが十分に検証されていなかった。それには,遺跡における栽培植物の証拠として,炭化米や雑穀粒などは示されるものの,これらの作物が水稲作のような状態で栽培されていたのか,それとも陸稲作のような状態で栽培されていたものなのかが,明らかにできていなかったことに原因があると考えられる。
 そこで筆者は,稲作や雑穀作に伴う雑草などの他の随伴する植物遺体に着目した。雑草は稲作や畑作などの人為的な耕作地に生育する,いわば人間と最も係わり合いの強い植物である。しかも,雑草は種類によって水田雑草,畑地雑草など生育地が特定できる物が多く,遺跡から産出する雑草種実の群集組成から当時の農耕形態を復元することが可能である。さらに雑草には史前帰化植物と呼ばれる種類も多く,農耕の伝播に伴って大陸から日本列島に渡ってきたものも多い。これらの性質を利用すれば,雑草から農耕の形態を復元することが可能になる。そのためには,まず,中国における初期稲作農耕の実態を明らかにしておく必要がある。これまでの研究から,稲作の起源地は中国中南部の長江中流域であることが有力になってきた。しかしながら,長江中流域で起源した稲作が,どのような形態の稲作だったのか,その実態はまだ明らかにされていなかった。そこで筆者は,約6,300年前の稲作遺跡である湖南省の城頭山遺跡において,考古植物学的手法を用いて,当時の稲作形態の復元を行った。その結果,当時城頭山遺跡で営まれていた稲作は,大渓文化から屈家嶺文化を通して,主として畑地のような環境で行われていたことが明らかになった。これは,遺跡周辺の氾濫原では水稲作があった可能性が高いが,遺跡内では陸稲栽培も行われており,水陸未分化の稲作形態だったことを示すものである。さらには,照葉樹林文化要素に認められる植物種の出現も多く,中国中南部における初期稲作農耕は,照葉樹林文化の影響のもと,水陸未分化の状態で営まれていたことが明らかになった。この照葉樹林文化の影響は,城頭山遺跡から産出した蘇苔類の遺体からも支持することができた。これまでの考古遺跡における植物遺体の分析は,特に栽培植物や,人間との係わり合いの強い種子植物に限られてきた。しかしながら,周りの環境を含めて総合的に議論するためには,蘇苔類なども重要な古環境情報を提示してくれる。今回,城頭山遺跡から産出したオオアオシノブゴケは,現在の照葉樹林帯に分布の中心をもつ種類であり,この遺跡が照葉樹林文化の影響を受けていたことを示す重要な指標となった。さらに,城頭山遺跡で営まれていた稲作は,イネだけでなくアワも同時に栽培していたことが明らかになった。これまで,アワは中国北部の黄河流域で起源し,中南部の長江流域での栽培はなかったと考えられてきた。しかしながら,今回はじめて,長江流域の稲作地帯でもアワが古代から同時に栽培されていたことが明らかになった。栽培種のアワと雑草のエノコログサ属各種は近縁の種類であり,遺跡から産出する果実粒の形態は非常に類似している。そのため,同定は困難であり,これまでは専門家の鑑定眼に頼っていたところが多かった。本章では,このような問題点を克服するために,アワと雑草エノコログサ属を区別する新たな指標を提示した。この指標は,電子顕微鏡による果実形態の詳細な観察と果実粒サイズの統計処理をもとに得られたもので,城頭山遺跡から産出したエノコログサ属果実がアワであることを明確に同定し得た。アワは従来,黄河流域で起源したと考えられてきたが,今回のような長江流域での産出結果が増加してくれば,今後アワの起源を再検討する必要性がある。これらのことから,中国中南部の初期稲作農耕は,照葉樹林文化の影響のもと,アワなどの雑穀作を伴った水陸未分化の状態で営まれていたことが明らかになった。同様に,日本の初期稲作農耕も,照葉樹林文化の影響のもと,アワなどの雑穀作を伴った水陸未分化稲作から始まったことが推定された。日本列島の縄文時代遺跡における植物遺体の産出記録を整理した結果,縄文時代前期には鳥浜貝塚などに代表されるように,シソ,エゴマやヒョウタンのような照葉樹林文化要素の栽培植物が多く,縄文時代後期~晩期(菜畑遺跡など)には炭化米やアワなどの雑穀粒と伴に畑地雑草が多く見出されていることが明らかになった。この結果は,日本の初期稲作農耕が,照葉樹林文化の影響のもとに,雑穀作を伴った水陸未分化の状態で始まったことを推察させた。しかもアワ作は東北日本と西南日本に別々に導入された可能性が考えられた。すなわち,東北日本のアワ作はナラ林文化に大きく関わったもので,中国北部から北方ルートで伝播した。一方で,西南日本の稲作に伴うアワ作は照葉樹林焼畑農耕文化の要素に含められ,長江流域から伝播してきた可能性が高い。以上のような中国と日本における初期農耕の形態比較から,次のようなことを総合的に考察した。まず,長江中・下流域で起源した稲作は,水陸未分化の状態で始まったことが考えられた。下流域の低湿地遺跡においても稲作が確認されているように,長江の氾濫原にあたる低湿地では水稲のような状態で稲作が行なわれた。一方,城頭山遺跡のようなレスの台地上に分布する遺跡では,陸稲栽培もあった。つまり,水陸どちらにおいても栽培できる品種であったと考えられる。また,城頭山遺跡からアワが産出したことを受けて,その伝播過程を検討した。今回のように中国南部からアワが産出したことは,阪本(1987)らが提案するアワの南方ルートを予察させるものである。これに従えば,アワがインド北西部において約15,000~9,000年前には栽培化され,北方ルートでは約9,000年前ころには中国華北部に到達した。一方で南方ルートでは,同じ頃に栽培化されたが,雲南などの照葉樹林地帯を通って,遅くとも,約6,300年前には長江中流域に到達したと考えられる。はじめ照葉樹林地帯では,採集・根菜農耕段階で生業が営まれていたが,インド北西部からのアワ栽培を受け取ることで,雑穀焼畑農耕段階に達した。さらに,長江中流域にまで伝播すると,水陸未分化の稲作を受け取ったと考えられた。このような長江中流域でのアワ作と稲作の融合が,長江文明の発展に寄与した可能性を考察した。これまで長江文明は稲作を基盤に発展してきたと考えられてきたが,稲作のみの単作では,自然災害や病虫害によって,その生産は不安定になるという指摘もあった。しかしながら本研究から,城頭山遺跡では台地上でアワや陸稲を栽培し,氾濫原で水稲栽培を行っていたことが明らかになった。このことは,度重なる長江の氾濫がおきても,台地上の雑穀・陸稲作があったために,安定した生産を行なうことができたことを示唆するものである。このように発展した長江文明は,約4,000年前の気候変動を機に衰退していった。花粉分析などによる中国の植生変遷図から,約4,000年前には,北部の温帯ステップが南下したことがわかっている。これと,中国北部のアワ産出遺跡の変遷を照らし合わせてみると,温帯ステップから逃れるようにして,アワ産出遺跡が北方と南方へ広がっていったことが明らかになった。これは,北方の民族が,森林域をもとめて移動を開始したことを意味する。このような民族移動によって,長江流域の稲作・アワ作が日本へと伝播した可能性が高い。日木では縄文時代の晩期に,九州北部でイネとアワが産出するが,これは長江流域から逃れてきた民族が直接的に九州へともたらしたものである可能性が高い。九州北部の菜畑遺跡と長江中流域の城頭山遺跡では,栽培穀物や雑草種の組成が極めて類似している。この結果から,日本の初期稲作農耕は長江流域からアワ作を伴って直接伝播してきたものであると考えられた。, 総研大甲第734号}, title = {The origin and dispersal of agriculture in China and Japan: Archaeobotanical study of Chengtoushan site, Hunan, China}, year = {} }