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/\u003e\u0026#9313;天明三年の江戸狂歌大流行前夜ともいうべき「向島三囲稲荷狂歌会」(天明二年四月開\u003cbr /\u003e催)には、通説にいわれるような唐衣橘洲色はなく、四方赤良中心とする四方側の催しだ\u003cbr /\u003eった。\u003cbr /\u003e\u0026#9314;天明三年正月の赤良編『万載狂歌集』と橘洲編『狂歌若葉集』によって江戸狂歌は爆発\u003cbr /\u003e的流行を見る。その前者における優位性に対し、後者に対する強い批判は、従来からの赤\u003cbr /\u003e良重視の研究に基づく偏った見方の結果であって、橘洲側からの視点に大きく欠けている。\u003cbr /\u003e\u0026#9315;天明三年刊の『狂歌師細見』は『吉原細見』のパロディであるだけに、遊女に見立てら\u003cbr /\u003eれた狂歌作者が特定しがたく、これが好資料なのに十分には活用されてこなかった最大の\u003cbr /\u003e要因である。そこで、天明期狂歌資料の網羅的調査を試み、その上で擬せられた狂歌作者\u003cbr /\u003eの比定を試みた。\u003cbr /\u003e\u0026#9316;天明期における狂歌連は、大きく地域連と個人連に三分されることを論じた上で、天明\u003cbr /\u003e三年段階では橘洲に「四谷連」という地域連はあっても個人連は存在しておらず、同五年\u003cbr /\u003e秋になって初めて「唐衣連」または「橘洲連」なる個人連が成立する。\u003cbr /\u003e\u0026#9317;そもそも「天明狂歌」なる呼称は誰がいつ頃から唱えはじめていかなる経緯を経て現在\u003cbr /\u003eの文学史用語となったのかを検証した。この語の初出は、管見の限りでは昇月堂編『狂歌\u003cbr /\u003eかつらの花』における弘化四年六月付の月下園桂影住跛文中である。その前後から戦前ま\u003cbr /\u003eでは「天明調」・「天明風」・「天明振り」との呼称が主流で、戦後になって研究者では\u003cbr /\u003e浜田義一郎、作家では石川淳が「天明狂歌」と称したことを機に文学史用語としての定着\u003cbr /\u003eを見る。\u003cbr /\u003e\u003cbr /\u003e【第二章】天明期以降をも視野に入れて狂歌作者に焦点を当てた。\u003cbr /\u003e\u0026#9312;天明狂歌壇の盟主四方赤良と山道高彦・吉野葛子夫妻における親交を跡づけた。また高\u003cbr /\u003e彦夫妻は初め元木網門下として天明狂歌壇に参入したこと、妻葛子の狂名命名者は木網妻\u003cbr /\u003eの知恵内侍で、早く天明年中に没して高彦に後妻がいること、高彦の死に際してはなぜか\u003cbr /\u003e赤良が口を閉ざしていること等にも言及した。\u003cbr /\u003e\u0026#9313;赤良が長崎出役中に長崎から江戸の高彦宛に送った資料を主とする『蜀山人自筆文書』\u003cbr /\u003e(大妻女子大学所蔵)を紹介・分析し、留守中の大田南畝狂歌会は高彦に委ねられていたこ\u003cbr /\u003eと等にも言及した。\u003cbr /\u003e\u0026#9314;大妻女子大学所蔵の高彦と竹垣柳塘宛の赤良書簡計十通の紹介と分析を行い、親しい狂\u003cbr /\u003e歌仲間としての高彦と、親子ほども年下である忘年の知友・柳塘との日常的な交流を具体\u003cbr /\u003e的に論じる。\u003cbr /\u003e\u0026#9315;狂歌三大人の一人で赤良朋友の朱楽菅江について、略伝と家系、安永期までの文学活動、\u003cbr /\u003e天明期における活発な狂歌活動、赤良が狂歌・戯作界と絶縁した寛政期以降菅江没までを、\u003cbr /\u003eそれぞれ具体的に論じ、特に狂歌活動についてはその入集刊本を知りうる限り列挙した。\u003cbr /\u003e\u0026#9316;寛政・享和期の洒落本作者である小金厚丸と旭間婆行については異名同人説があるが、\u003cbr /\u003e別途、狂歌資料から再検討してみると、明確に両者別人であることが判明する。\u003cbr /\u003e\u0026#9317;天明期から明治期まで五代続いた浅草庵の代々について論じた。特に二世守舎では前号\u003cbr /\u003e「守 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/\u003e者と画工は、この時の反省を踏まえつつ、天保期にかけてさらに同様な取り組みとして『歌\u003cbr /\u003eの友ふね』『栄花の夢』なる狂歌本を刊行している。その経緯等について具体的に論じる。\u003cbr /\u003e\u003cbr /\u003e【第四章】当初から関心が高かった尾張における江戸狂歌文化を基軸として、尾張戯作界\u003cbr /\u003eの再検討を試みる。\u003cbr /\u003e\u0026#9312;寛政期から文政期にかけての尾張洒落本界に江戸狂歌趣味があることを、その洒落本界\u003cbr /\u003eの動向および特筆すべき作者の狂歌活動を通して分析検討した。\u003cbr /\u003e\u0026#9313;化政期の名古屋書肆万巻堂菱屋久八は後の本居内遠その人であるが、本居家に入る以\u003cbr /\u003e前は盛んに狂歌・戯作活動を行っている。その実態を具体的に論じる。\u003cbr /\u003e\u0026#9314;その久八の代表作が文化期の『狂謌弄花集』で、尾張関係者のみの集大成である。同書\u003cbr /\u003eには、江戸狂歌の発生と展開に関する寛政九年付の唐衣橘洲の一文があって著名だが、同\u003cbr /\u003e書自体の調査研究はされていない。同書は当初、無刊記の久八私家版、次いで万巻堂商品\u003cbr /\u003eとして発刊された。その経緯と同書の意義について具体的に論じる。\u003cbr /\u003e\u0026#9315;主として文政から天保にかけて活動した花山亭笑馬(尾張藩御蔵方手代)の伝記とその\u003cbr /\u003e狂歌・戯作活動、および合作者・二酔亭佳雪について具体的に論じ、笑馬の作かと目され\u003cbr /\u003eてきた天明四年の洒落本『角鶏卵』が笑馬の著ではないこと等についても言及する。\u003cbr /\u003e\u0026#9316;尾張における幕末の雑学者として著名な小寺玉兄も狂歌活動を行っており、刊本に入集\u003cbr /\u003eするのみならず、高級尾張藩士の山月楼扇水麿とも狂歌を通じて親交があったことを論じ\u003cbr /\u003eる。\u003cbr 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江戸狂歌壇史の研究
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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Item type | 学位論文 / Thesis or Dissertation(1) | |||||
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公開日 | 2011-01-14 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 江戸狂歌壇史の研究 | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_46ec | |||||
資源タイプ | thesis | |||||
著者名 |
石川, 了
× 石川, 了 |
|||||
フリガナ |
イシカワ, リョウ
× イシカワ, リョウ |
|||||
著者 |
ISHIKAWA, Ryo
× ISHIKAWA, Ryo |
|||||
学位授与機関 | ||||||
学位授与機関名 | 総合研究大学院大学 | |||||
学位名 | ||||||
学位名 | 博士(文学) | |||||
学位記番号 | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | 総研大乙第196号 | |||||
研究科 | ||||||
値 | 文化科学研究科 | |||||
専攻 | ||||||
値 | 06 日本文学研究専攻 | |||||
学位授与年月日 | ||||||
学位授与年月日 | 2010-03-24 | |||||
学位授与年度 | ||||||
2009 | ||||||
要旨 | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | 序章では、単に従来の諸説を再構築するのではなく、第一章以下の筆者の観点を盛り込<br />みつつ、筆者なりの江戸狂歌通史をその爛熟期である天明期末までに絞って、「黎明期」<br />「胎動期」「大流行」「天明期の展開」の四期に分けて概説し、以て本論への導入部とした。<br /><br />【第一章】その爛熟期である天明狂歌壇における諸問題を論じた。<br />①江戸狂歌をはじめて出版した浜辺黒人の出版活動、具体的には『栗能下風』・『初笑不<br />琢玉』・『狂歌猿の腰かけ』についての出版経緯と分析。<br />②天明三年の江戸狂歌大流行前夜ともいうべき「向島三囲稲荷狂歌会」(天明二年四月開<br />催)には、通説にいわれるような唐衣橘洲色はなく、四方赤良中心とする四方側の催しだ<br />った。<br />③天明三年正月の赤良編『万載狂歌集』と橘洲編『狂歌若葉集』によって江戸狂歌は爆発<br />的流行を見る。その前者における優位性に対し、後者に対する強い批判は、従来からの赤<br />良重視の研究に基づく偏った見方の結果であって、橘洲側からの視点に大きく欠けている。<br />④天明三年刊の『狂歌師細見』は『吉原細見』のパロディであるだけに、遊女に見立てら<br />れた狂歌作者が特定しがたく、これが好資料なのに十分には活用されてこなかった最大の<br />要因である。そこで、天明期狂歌資料の網羅的調査を試み、その上で擬せられた狂歌作者<br />の比定を試みた。<br />⑤天明期における狂歌連は、大きく地域連と個人連に三分されることを論じた上で、天明<br />三年段階では橘洲に「四谷連」という地域連はあっても個人連は存在しておらず、同五年<br />秋になって初めて「唐衣連」または「橘洲連」なる個人連が成立する。<br />⑥そもそも「天明狂歌」なる呼称は誰がいつ頃から唱えはじめていかなる経緯を経て現在<br />の文学史用語となったのかを検証した。この語の初出は、管見の限りでは昇月堂編『狂歌<br />かつらの花』における弘化四年六月付の月下園桂影住跛文中である。その前後から戦前ま<br />では「天明調」・「天明風」・「天明振り」との呼称が主流で、戦後になって研究者では<br />浜田義一郎、作家では石川淳が「天明狂歌」と称したことを機に文学史用語としての定着<br />を見る。<br /><br />【第二章】天明期以降をも視野に入れて狂歌作者に焦点を当てた。<br />①天明狂歌壇の盟主四方赤良と山道高彦・吉野葛子夫妻における親交を跡づけた。また高<br />彦夫妻は初め元木網門下として天明狂歌壇に参入したこと、妻葛子の狂名命名者は木網妻<br />の知恵内侍で、早く天明年中に没して高彦に後妻がいること、高彦の死に際してはなぜか<br />赤良が口を閉ざしていること等にも言及した。<br />②赤良が長崎出役中に長崎から江戸の高彦宛に送った資料を主とする『蜀山人自筆文書』<br />(大妻女子大学所蔵)を紹介・分析し、留守中の大田南畝狂歌会は高彦に委ねられていたこ<br />と等にも言及した。<br />③大妻女子大学所蔵の高彦と竹垣柳塘宛の赤良書簡計十通の紹介と分析を行い、親しい狂<br />歌仲間としての高彦と、親子ほども年下である忘年の知友・柳塘との日常的な交流を具体<br />的に論じる。<br />④狂歌三大人の一人で赤良朋友の朱楽菅江について、略伝と家系、安永期までの文学活動、<br />天明期における活発な狂歌活動、赤良が狂歌・戯作界と絶縁した寛政期以降菅江没までを、<br />それぞれ具体的に論じ、特に狂歌活動についてはその入集刊本を知りうる限り列挙した。<br />⑤寛政・享和期の洒落本作者である小金厚丸と旭間婆行については異名同人説があるが、<br />別途、狂歌資料から再検討してみると、明確に両者別人であることが判明する。<br />⑥天明期から明治期まで五代続いた浅草庵の代々について論じた。特に二世守舎では前号<br />「守 家」での狂歌活動等について、また三世春村では国学者として著名だっただけに従<br />来等閑視されてきたその狂歌活動の全貌を、さらに四世広道では、これまた戯作者として<br />の文筆以外にほとんど報告のないその狂歌活動について、郷里の熱田時代から説き起こし<br />た。<br />⑦上方の一大名跡「人文字屋(舎)」を江戸で継承した幕末の狂歌作者・村田元成論。元<br />成は天明狂歌作者の加保茶元成の孫に当たり、三世浅草庵春村の門人にして四世浅草庵広<br />道とは親友だった。その狂歌活動を中心とする全体像を論じる。<br /><br />【第三章】江戸狂歌そのものではなく、それに付随する諸問題を論じた。<br />①江戸市民文芸だった江戸狂歌の地方、特に天明期の尾張への伝播について論じる。その<br />方法として、天明狂歌本に見える国付作者に注目した。天明期の初期狂歌本には国付がな<br />い作者であっても、後の天明期狂歌本では新たに国付が付記されるようになる。この国付<br />を基に先行狂歌本に当たり直すと、埋もれている地方狂歌作者が見いだせる。尾張を中心<br />に論じたのは、同国が当初から江戸狂歌に敏感だったからに他ならない。<br />②「入花」制度とは当初、投吟者に出版費用のみを分担してもらう制度だったが、後には<br />撰者による撰歌料を上乗せしたものを指すようになる。天明期から始まるこの制度を軸と<br />して、江戸狂歌文化の一端を通史的に論じたものが本稿で、伝存することが希な投吟用募<br />集チラシを基礎資料として、文政期の実態を考える。<br />③散文である読本の摂取を企てた狂歌本に、文政期の『詠味寄諄』がある。その三人の撰<br />者と画工は、この時の反省を踏まえつつ、天保期にかけてさらに同様な取り組みとして『歌<br />の友ふね』『栄花の夢』なる狂歌本を刊行している。その経緯等について具体的に論じる。<br /><br />【第四章】当初から関心が高かった尾張における江戸狂歌文化を基軸として、尾張戯作界<br />の再検討を試みる。<br />①寛政期から文政期にかけての尾張洒落本界に江戸狂歌趣味があることを、その洒落本界<br />の動向および特筆すべき作者の狂歌活動を通して分析検討した。<br />②化政期の名古屋書肆万巻堂菱屋久八は後の本居内遠その人であるが、本居家に入る以<br />前は盛んに狂歌・戯作活動を行っている。その実態を具体的に論じる。<br />③その久八の代表作が文化期の『狂謌弄花集』で、尾張関係者のみの集大成である。同書<br />には、江戸狂歌の発生と展開に関する寛政九年付の唐衣橘洲の一文があって著名だが、同<br />書自体の調査研究はされていない。同書は当初、無刊記の久八私家版、次いで万巻堂商品<br />として発刊された。その経緯と同書の意義について具体的に論じる。<br />④主として文政から天保にかけて活動した花山亭笑馬(尾張藩御蔵方手代)の伝記とその<br />狂歌・戯作活動、および合作者・二酔亭佳雪について具体的に論じ、笑馬の作かと目され<br />てきた天明四年の洒落本『角鶏卵』が笑馬の著ではないこと等についても言及する。<br />⑤尾張における幕末の雑学者として著名な小寺玉兄も狂歌活動を行っており、刊本に入集<br />するのみならず、高級尾張藩士の山月楼扇水麿とも狂歌を通じて親交があったことを論じ<br />る。<br />⑥幕末の尾張には、江戸の耽奇会にも似た耽古会なる組織があった。その成果である『乞<br />児奇伝』と『骨董評判記』を通して、狂歌趣味の会員もいたその面々、および同会性格の<br />一端を論じる。<br />⑦歌書収集家として著名な雑賀重良氏旧蔵書(名古屋市蓬左文庫蔵)の内から、尾張と美<br />濃の狂歌資料を紹介する。 | |||||
所蔵 | ||||||
値 | 有 |