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  1. 020 学位論文
  2. 文化科学研究科
  3. 03 国際日本研究専攻

「東京銀座資生堂」:福原信三と企業イメージの構築

https://ir.soken.ac.jp/records/2150
https://ir.soken.ac.jp/records/2150
9a8e39b8-3c97-4082-9d1e-8859e54160dc
名前 / ファイル ライセンス アクション
甲1366_要旨.pdf 要旨・審査要旨 (427.8 kB)
Item type 学位論文 / Thesis or Dissertation(1)
公開日 2011-06-02
タイトル
タイトル 「東京銀座資生堂」:福原信三と企業イメージの構築
言語
言語 jpn
資源タイプ
資源タイプ識別子 http://purl.org/coar/resource_type/c_46ec
資源タイプ thesis
著者名 戸矢, 理衣奈

× 戸矢, 理衣奈

戸矢, 理衣奈

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フリガナ トヤ, リイナ

× トヤ, リイナ

トヤ, リイナ

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著者 TOYA, Riina

× TOYA, Riina

en TOYA, Riina

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学位授与機関
学位授与機関名 総合研究大学院大学
学位名
学位名 博士(学術)
学位記番号
内容記述タイプ Other
内容記述 総研大甲第1366号
研究科
値 文化科学研究科
専攻
値 03 国際日本研究専攻
学位授与年月日
学位授与年月日 2010-09-30
学位授与年度
値 2010
要旨
内容記述タイプ Other
内容記述 資生堂初代社長、福原信三(一八八三~一九四八)は、いかにして「東京銀座資生堂」という企業イメージ、すなわち企業の無形資産を形成したのか。本論文は、その過程の編年的・社会的文脈を具体的に復元することを通して、福原の企業家としての独創性がどこにあり、それがいかにして発揮されたのかを解明することを目的とする。
従来の資生堂論では同社の企画運営の内情に踏み込む研究は様々な制約から、達成されてこなかった。本論文では関係者の証言や、資生堂企業資料館に収蔵された一次資料を吟味するとともに、銀座の都市空間の発展、資生堂の経営史、福原信三の景観問題への関与と写真家としての見識など、従来見過ごされてきた視点に注目する。そのうえで福原が独自の理念のもとで「東京銀座資生堂」というイメージの構築に積極的に関与した結果、強力な企業イメージの形成に成功したことを立証しようとするものである。同時に、企業イメージの形成過程を社会史の動態のなかに位置づけることにより、既存の研究領域を超えて企業と社会との関係史を明らかにしていくものである。

【第一部】銀座の空間構想と資生堂の経営戦略
第一部では、環境がすべてを支配するとの福原信三の理念に着目し、「東京銀座資生堂」のイメージが、経営参画当初から「環境」を重視した信三の店舗そして都市空間への積極的な関与のなかで形成されたものであることを立証した。

1)資生堂は一八七二年に信三の父である福原有信により日本初の洋風調剤薬局として京橋区出雲町に開業し、「新橋資生堂」として知られていた。「東京銀座資生堂」の表記となるのは信三の経営参画後の、ほぼ一九二一年以降のことである。それは資生堂が一薬局から全国に販路を持つメーカーへと拡大する時期と重なる。

一九一〇年代中葉より銀座は衰退の危機にあると囁かれていた。その背景には、最新舶来情報や物品の到着地であった新橋駅の閉鎖、東京駅の誕生による丸の内の活況、日本橋のデパートの人気などがある。後藤新平が、市区改正計画として道路の拡張と銀座名物の柳並木の撤去を提唱するや、銀座衰亡の懸念は一層高まった。こうしたなか、信三は有識者五十名超から寄稿を得て一九二一年に『銀座』を刊行し、銀座を従来の四丁目までから八丁目までに拡張する「大銀座」計画や、「共同精神」を重視した商店街全体の連携の強調、さらに百貨店に対抗すべく小売店の「個性化」などの諸策を打ち出した。これらの信三の「夢想」の多くは、二年後の関東大震災を経て現実化し、現在の銀座の基盤を形作ることになる。
既にモダン都市文化の現象面に注目した銀座論は多数存在する。だが、銀座が小売店の集合体である以上、そこには必然的に経営者の意図が介在していたことは無視できない。モダン都市文化展開の胚胎期に、その前提をなすべき都市振興策があらかじめ計画されていたことは、注目に値するものと思われる。

2)信三は経営参画の当初から、小売店舗を独自の宣伝媒体と意識し、西洋式の社交空間としてパーラーやギャラリーを開いた。同時期には社外においても田園都市開発に事業会社役員として参加するなど、近代的な西洋風の空間整備に尽力した。
一九一〇年代の日本では、都市化が進行し、公共建築物が洋風の椅子式空間に変貌する一方で一般住宅の多くは畳を中心としていた。この和洋の「二重生活」の非効率や都市景観の統一感のなさが新渡戸稲造、大隈重信ら各界の有識者から問題視された。彼らは「衣食住」ではなく「住食衣」が本来の順序であると強調し、洋風住宅が動作を快活にする、個人主義的な心性を育むなどとして、住宅や景観と国民性との関連を議論していた。
とりわけ渋沢栄一や藤山雷太を筆頭にした外国事情に明るい開明的な実業家は日本人が国民的に非社交的、陰鬱である点を懸念し、畳における「坐式生活」をその一大要因と見做していた。彼らは帝国劇場など西洋式の社交場の建設を通じて「社交の民主化」をも図っていく。彼らにとっては、人々の気軽な交際こそが民主主義を象徴するものでもあった。信三も日本女性を束縛していた間接的要因として畳を挙げるなど、明らかに環境と国民性の相関を意識しており、明治第一世代の思想的影響のもとで、こうした課題の解決を実践していった。そもそも、信三により資生堂で販売された化粧品も七色の白粉や多種多様な香水など、彼が帰朝当初から望んでいた日本女性の「個性化」に資するものだった。
実際、女性の美徳としての社交性という新たな価値観が市民権を得るには、西洋風の空間は不可欠だった。日清・日露戦争を経て一等国意識が高まるなかで、社交性が新時代の価値として奨励され、外交官夫人を筆頭に「社交界のクイン」が女性誌などでも持て囃されるようになる。一九二〇年代には協調外交を背景に社交への関心はさらに高まり、贅沢な西洋風の空間やそこでの珈琲、紅茶は「社交界」の象徴となっていく。当時のエリート層である洋行経験者にとっても、洋間は茶道とも密接に関わった和室に替わる交際空間として支持を集めた。資生堂は銀座を象徴する開かれた社交空間として人気を高めた。
信三は経営参画後に新たな化粧品を販売するにあたり、短期的な流行を追うのではなく、国民性とも密接に関連する、環境という変わりにくいものが変化する歴史的な潮流を捉え、それを先導する役割を担った。それゆえに「東京銀座資生堂」は象徴性のある企業イメージを形成しえたと言えよう。

【第二部】全国展開における福原信三の経営哲学とデザイン美学
第二部では資生堂が一九二三年のチェインストア制の採用、一九二七年の株式会社化による全国展開を経て、地方で「東京銀座資生堂」がいかにアピールされたのかを問う。チェインストアの活動の実態の復元に努める一方、「資生堂調」の意匠が確立する背景を、草創期の日本の写真芸術を牽引した信三が著述した写真論に探る。

1)全国展開の草創期から、資生堂はメディアを通して「東京銀座資生堂」のイメージを地方都市に印象づけ、『資生堂月報』などで、住宅をはじめ西洋式の生活文化を日常的に実践可能な形で紹介した。こうした活動を牽引した矢部季、三須裕ら草創期の意匠部員の活動の全容を一次資料から復元していくことに努めた。

2)金融恐慌以降の不況を背景に産業合理化運動が推進されるなか、チェインストア自体が北米式の「合理的経営」の実践として喧伝された。加盟店には「共同精神」が強調され、チェインストアを通した「個人」と「社会」との有機的連帯が説かれた。信三の経営観とベルクソンや西田幾多郎ら大正時代に流行した思潮の影響との関係を示した。

3)信三は花椿の商標や書体、唐草など「資生堂調」と称される独自のデザイン原則を定め、企業イメージを視覚的に再生産しうる組織体制を整えた。話題性が重視された当時の広告界にあって、企業の個性を重視した資生堂の広告はむしろ異例であった。信三の意匠観の原点として、その写真論を通した芸術観に注目し、信三が徹底した「個性の涵養」が普遍性につながると考えていたことを示した。
一方で信三は「不易」と「流行」の問題を前提にした発言を繰り返し、安直な模倣などを批判した。

4)信三は一瞬の感興を表現するという点から、写真と俳句との類似性を強調し、両者を日本人の国民芸術として捉えた。株式会社化以降、全国展開が本格化する時期には、信三の関心はこうした日本人独自の国民性を涵養した日本の自然や景観へとその重点が移っていく。一九三〇年代には「風景協会」をはじめ風致保護活動にも尽力した。

このように福原信三は「環境」をすべての決定要因として重要視するとともに、変わりにくい「環境」が変化する潮流を捉え、実践を通して時代を先導した。それはまた、信三が終生にわたり様々なレベルで「環境」と「個性」との関係を問うていく過程でもあった。本論文は、こうした福原信三の経営哲学と事業展開とを時代相のなかに位置づけることで「東京銀座資生堂」が、国内はもとより、とりわけ戦後には国際的にも、確固とした企業イメージを確立するに至った要件を精査したものである。
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値 有
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Ver.1 2023-06-20 15:54:29.381803
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