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  1. 020 学位論文
  2. 文化科学研究科
  3. 03 国際日本研究専攻

神歌の伝承と変成 -沖縄県宮古島狩俣集落の事例からー

https://ir.soken.ac.jp/records/70
https://ir.soken.ac.jp/records/70
0de2c721-8ae7-4623-aacc-4d7a0aa3bba6
名前 / ファイル ライセンス アクション
甲238_要旨.pdf 要旨・審査要旨 / Abstract, Screening Result (379.1 kB)
Item type 学位論文 / Thesis or Dissertation(1)
公開日 2010-02-22
タイトル
タイトル 神歌の伝承と変成 -沖縄県宮古島狩俣集落の事例からー
言語
言語 jpn
資源タイプ
資源タイプ識別子 http://purl.org/coar/resource_type/c_46ec
資源タイプ thesis
著者名 津田, 順子

× 津田, 順子

津田, 順子

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フリガナ ツダ, ジュンコ

× ツダ, ジュンコ

ツダ, ジュンコ

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著者 TSUDA, Junko

× TSUDA, Junko

en TSUDA, Junko

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学位授与機関
学位授与機関名 総合研究大学院大学
学位名
学位名 博士(学術)
学位記番号
内容記述タイプ Other
内容記述 総研大甲第238号
研究科
値 文化科学研究科
専攻
値 03 国際日本研究専攻
学位授与年月日
学位授与年月日 1997-03-24
学位授与年度
値 1996
要旨
内容記述タイプ Other
内容記述 本研究は、沖縄県宮古島の狩俣(カリマタ)に伝えられている神歌(神に関わる歌の総称としてこの語を用いる)を対象として、以下のような目的を設定して研究を行う。
 文学(歌)が神のことばがらはじまったと考えたのは折口信夫であった。ある文章が定型を持ち、永く記憶されて伝承されるほど値打ちがあるとされたのは、それが神のことばだったからだと考えたのである。
 折口の言う「神」とは、「種族の意向」の上に立つ神であった。それは、あくまで「種族」にとっての神であり、神に憑かれる人、一人一人にとっての神ではない。そのような神を折口は問わない。神を一人一人の固有の体験の問題として問うことをしないのである。一人一人の体験の中に現れる神は、いつも同じ相貌の種族の神だったろうが。そうではないだろう。そういう人たちにとっての体験としての神を考え、それが、種族の神とどのように関わるのかを具体的に考えてみる必要がある。
 数年にわたって同じ村落の祭妃を見ていると、様々な変容を見出すことができる。本研究で述べる沖縄県の宮古島の狩俣集落では、神のお告げによって共同体の祭肥が改変されることもある。この場合狩俣では、神と直接交流のできる人が神の意志を共同体の神役たちに告げるのである。そして様々なプロセスを経て、時には、改変が実行される。ひとりの神ががりにとっての神と、共同体にとっての神とが、相互に交渉しながら、集落の祭肥世界を形成しているのである.したがって、問うべきは、その動的なプロセスであると考える。
 以上をふまえ、私はまず、個にとっての神というものに焦点を当ててみる。共同体と個とを固定化して考えるのではない。私が見たいのは、それらの具体的な、動的な関係である。一人一人が祭肥世界に対して、どのような価値観、論理、世界像を持っているのか。そのことが当人の生に、どのような意味をもたらしているのが。そして、ある一人の論理や世界像が、別の一人の論理や世界像、あるいは共同体の論理や世界像と出会い、その闇に対立や矛盾が生じた場合、どのように解決され得るのか。そのことによって、それぞれの世界像はどのように変容するのが。さらに、そのような個々の意識変容は神歌の表現とどのように関わってくるのが。以上の問題を、沖縄県宮古島の狩俣集落の神歌の事例から考えてみること、これが本研究の目的である。
 論文の構成は以下の通りである。
 第1章では、まず、「神役」と「枢者」という概念について考察した.南西諸島の民俗宗教研究においては、宗教的職能者をその職能から大きくふたつのカテゴリーに分けて考えてきた。ひとつは村落共同体の公的な祭肥を司る者(神役) もうひとつは個人や家の私的祭肥を司る者(王者)である。狩俣では、神と直接交流のできる王者が、共同体の「神役」となることもある。「神役」就任期間は王者としての活動はできないのだが、神との直接交流の能力が失われるわけではない。一人の人間の動態として見る時、「神役」と「王者」とは分けがたいものとなる場合がある。
 神と直接交流し、その命を受けている者は、その人自身の「神」の徹底的な統制下で生きることになる。したがって、その人が「神」かも指示を受けた場合には、その内容が、共同体の祭肥の改変に関わることであろうとも、実行に移さねばならなくなる。王者の変革的な性格は、ここに根ざしている。一方、神と直接交流する能力のない人は、前任者から伝えられたことが唯一の正しいことである。したがって祭肥の改変の申し出があっても、これまで通りのやり方を守らなければならない。両者の主張のどちらが「是」とされるかは、結局実践してみなければわからないというところで決定されてゆく。改変してみて集落に災厄などが生じなければ、その改変事項は定着する。災厄が生じれば、すみやかに原状回復がはかられるのである。狩俣の祭肥では「昔のまま」が「是」とされ、守ろうとする側も、変革しようとする側も、それぞれに「真」である「昔のまま」を持っている。それがコンテクストに応じて相互交渉し、新たな「昔のまま」が形成されることになる。
 第2章では、神歌を歌う人間が、どうやって育てられ、神歌を口にするにいたるのか、個から個へ、神歌はどのように受け継がれているのか、そのことについて、ひとりの神役の具体的事例に即しつつ論じた。狩俣の神役たちは、それぞれが独自の役割を与えられており、神役としての仕事は、基本的に、同じ神役闇で継承され、他の役に就いている神役にはわからない部分がある。神役個々が「秘技・秘伝」を持っているのである。神歌もまた、一人の神役かも一人の神役へと伝承されるものを含んでおり、その神歌を歌うことを委ねられた人だけが音声化できるという点において、「秘技・秘伝」と言ってよいものと考えられる。神役たちは、前任者から「ひと声ひと声」習ったものをそのまま歌う。「変えてもよい」とは、現在の狩俣では思われていない.実際の祭紀の場には、誰の場合でもそう言えるわけではないが、前任者がいて、後継者の歌うのを聞いている場合もある。また、直接の前任者でなくても、神役経験者など、前任者の歌うものを聞いてきた人たちがいる。そういう場で、神歌を間違えたりすると、知っている人から指摘されることもある。公開されつつ伝承されることで、神歌は、大幅な改変が生まれにくいものとなる。だが、最終的には、その神歌を歌うことが一任されている神役に、すべてが委ねられている。神歌は、これを歌うことを一任されている人と、それ以外の人たちとの緊張関係の中で、一回ごとに「正しいテキスト」が了解されるというかたちで生成していると言える。
 第3章では、狩俣の神歌の基本様式を概観し、続く第4章以下での個々の神歌の分析のための予備的考察を行なった.
 第4章、第5章では、一往一往の神の事跡が歌われるタービとフサというジャンルの神歌について具体的な分析を行なった.
 第4章では、狩俣の神役組織のリーダーであるアブンマという神役の女性の説明から、タービ(崇べ)という神歌が、神の「思い」を言うものであることを明らかにした。神の思いをそのまま汲み取り、神歌としてその思いを歌うこと、それがすなわち、「崇める」という意味の「ターピ」である。さらに神役経験者の説明から、タービは、「神のもの」という点において、フサと明確に区分できないものであることが明らかになった。
 第5章では、フサという神歌が、自分に憑依しようとしている神々の存在に苦痛を覚えた人が、神に向かって「どうぞやわらいでいて下さい」と言うことばからはじまるものであることを明らかにした。そうしているうちに神が憑依してきて、神が神自身のことを語り出してしまうものがフサである。神役経験者の女性が、「神のもの」であるという点で、タービとフサとを同じものだと説明するのは、これらが、「思い」を歌ってもらいたいと現れて来る神の、その「思い」を歌うものである、ということによるのだろう。ターピやフサは、「思い」を歌ってもらいたいと、その存在を告げ知らせる神の「声」を、否応もなく聞いてしまった人のものである。神歌が、ある特定の神役に委ねられて音声化されるのは、その神役が、理念型として、神の「思い」を聞くことのできるものとして存在する、あるいは、そのことが期待される者として存在するがらではないか。
 終章では、神歌の変成のプロセスを、仮説として提示した。
 前述の通り、神と直接交流し、その命を受けるということは、その人自身の「神」の徹底的な統制下で生きることを意味する。それ故にその人は、変革的な性格を持ってしまう。神の「思い」を汲み取れる人は、神に抗うことができない人である。タービやフサが、神の「思い」を歌うものであるということは、そのような変革性を持った人が、その生成と伝承に関与してきたことを示唆している。
 神歌は、それを音声化できるただひとりの神役に委ねられてあるものだ。もしその人に王者的能力があったとすれば、そこには新たな神歌が生成する場が形成される。1960年代に宮古島各地の集落祭紀を調査した鎌田久子は、神がかりしなければ共同体の神役を担う能力はないと述べている。そういう時代を狩俣が経てきたとすれば、狩俣の神歌は、神と直接交流ができるが故に、否応なく変革的性格を持ってしまう人たちの意識の中で、変成する可能性を常に含みながら伝承されてきたことになる。それは、いつでも「可能性」として存在する。なぜなら神というものはその絶対性ゆえに、どこまでも気紛れなものであるからだ。神は、時と場所を定めてやってくるとは限らない。神との直接交流は、いきなり、はじまってしまう。前の人から教えられたとおりにやっていても、神は納得してくれないこともある。だからこわいのである。そのこわさこそが変革性の根拠でもあり、保守性の根拠でもある。その相反する意識の狭間で、いつ変成するともしないとも決めがたく、一回ごとに生成するのが神歌であると考えられる。
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値 有
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Ver.1 2023-06-20 15:01:26.634500
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